報道によると、コロナの影響で九州の観光消費が60%も減少し、温泉も大きな打撃を受けたという。ところで、温泉といえば、豊臣秀吉が大の温泉好きで、有馬温泉に頻繁に通っていた。その状況を探ることにしよう。

■豊臣秀吉と有馬温泉

 天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、代わって台頭したのが羽柴(豊臣)秀吉である。信長の後継者として権力を掌中に収めた秀吉は、有馬温泉(地名としては湯山。神戸市北区)を愛したことで知られている。

 天正11年(1583)9月、秀吉は本願寺顕如の有馬湯治に際して、湯山惣中(有馬を支配する自治組織)へもてなすよう命じた(「余田文書」)。顕如夫妻は有馬で湯治を行い、そのお礼として秀吉に贈り物をした。では、こうした秀吉の顕如夫妻への接待は、単なる遊興の一部と考えてよいのだろうか。

 10年にわたって大坂本願寺と織田信長が死闘を繰り広げていたので、秀吉も本願寺の力を十分に認識していた。そして、秀吉の居城・大坂城(大阪市中央区)が大坂本願寺跡に築かれたことは、両者の関係を示すうえで重要な意味を持ったと推測される。

 したがって、秀吉が顕如を有馬でもてなしたことは、互いの友好関係を築く政治的な意味を持ったことは確かなことと考えてよいだろう。

■費用を賄った秀吉

 天正14年(1586)以降、秀吉は配下の者(関係者含む)が湯治を行う際には、料米(資金)を湯山衆に給し、費用の一部を弁じていた。つまり、滞在にかかる費用を料米で賄っていたのだ。

 また、天正13年(1585)2月、秀吉の妻(おね)は薬師堂建立のため、公用として1500貫(現代の貨幣価値で約1億5千万円)もの寄進を行い、加えて毎年の地料(土地の使用料)として100石を寄進することも約束した(「善福寺文書」)。

 その2年後には、薬師堂に新しい仏も作った。このように、秀吉は有馬の薬師堂建立や新仏の作製などによって、有馬支配への強い意欲を示したと考えられる。

■蔵入地になった湯山

 湯山が秀吉の蔵入地になったことは、よく知られている。蔵入地とは豊臣政権の直轄領であり、そこからの年貢によって政権の財政が賄われていた。

 摂津国では、約10万石程度の蔵入地があったと推測されている。湯山の地もそのひとつだった。そして、蔵入地の収入から有馬温泉の運営費用が賄われており、莫大な額になったと推測される。

 蔵入地からは湯山惣中に100石が与えられ、そのほかにも秀吉の湯治の費用が賄われていた。特に、秀吉専用の「御殿」が造営されたことは、注目に値すべきところだ。それまでは湯治に際して、現地の宿を借りていたが、専用の宿泊施設が造営されたのである。

 御殿が造られた理由は、秀吉の体調不良によると推測される。のちに秀吉は腕や足の痛みを訴えるようになるが、この頃から前兆があったように考えられる。

 つまり、秀吉は単なる湯治にとどまらず、本格的に体調を整えるため、有馬温泉を積極的に利用したのだ。その一部には、行楽としての意味合いもあった。

■さらなる湯山の開発

 文禄3年(1594)12月、秀吉はさらに積極的に湯山の開発を進めた(「善福寺文書」など)。具体的に言えば、65軒の家を壊し、新たに御座所・御屋敷を造営したのである。

 そのため65軒の家の者には、蔵入地の収入によって、弁済として銀11枚と米100石が与えられた。壊されたのは家だけでなく寺院も含まれており、その費用として10石が与えられたことも確認できる。こうして秀吉専用の施設が整備されたのである。

 以上のように有馬温泉は、秀吉の手によって、大々的に開発が進められた。この大掛かりな開発は、現地にいかなる影響を与えたのだろうか。

 有馬温泉の開発は、蔵入地の収入によって賄われたが、多くの夫役は現地の人々に強制されたと考えられる。この点を考慮すると、有馬の人々にとっての有馬の開発とは、大きな負担であったと推測される。

 とはいえ、秀吉によって有馬温泉が開発され、現代の発展につながっていることは、否定できない事実である。