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【戦国こぼれ話】依怙贔屓は昔からあった。ルイス・フロイスが大好きだった戦国大名の理由を問う

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
高山右近はキリシタンだったので、フロイスから好かれていた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 今も学校や職場で依怙贔屓があり、不愉快な思いをした人がいるはずだ。戦国時代に日本を訪れたルイス・フロイスにも、戦国大名の好き嫌いがあった。その理由を考えてみよう。

■キリシタン大名の先駆けだった大友宗麟

 豊後の大名・大友宗麟は、天文20年(1551)にザビエルと引見して以来、キリスト教を保護してきた。天正6年(1578)にはキリスト教に帰依し、ドン・フランシスコの洗礼名を与えられ、4年後にはローマ教皇のもとに天正遣欧使節を派遣した。それゆえ、宗麟はフロイスから「日本でもっとも英知聡明な王」と最大の賛辞を贈られた。

 宗麟はポルトガル人を手厚く保護し、領民にも食料や衣服を与えるなど、慈悲深い大名として高く評価されていた。ゆえに、宗麟は宣教師を通して軍事物資を手に入れるなど、さまざまな便宜を図られた。ただし、宗麟がキリスト教を信仰することにより、家中に軋轢を生んだのは、誠に不幸なことであった。

■キリシタン大名・高山右近

 高山右近はキリシタン大名として知られており、永禄6年(1563)に洗礼を受けた。洗礼名は、ジュスト。右近は領内の人々にキリスト教を強要しなかったが、多くが仏教から改宗したという。

 右近が居城とした高槻城は京都から近く、フロイスはたびたび訪れ、教会でミサを執り行ったといわれている。天正4年(1576)、右近はオルガンチノを招き、盛大に聖週の儀式を執り行った。

 元亀2年(1573)、右近は和田惟長と戦い、瀕死の重傷を負った。その傷は腕と首に受け、大量出血を伴い死の危険が迫っていた。その後、右近は何とか一命を取り留めたが、それは神のおかげであり、右近の信仰心の賜物であるとフロイスは述べる(『日本史』)。右近は戦争に出陣する際、京都の神父にデウスの加護を祈ってほしいと依頼をしたほどである。

 しかし、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布すると、右近は失脚。最期は、フィリピンのマニラで迎えた。

■期待された黒田官兵衛

 黒田官兵衛(孝高)がキリスト教に改宗したのは、天正12年(1584)のことである。官兵衛は秀吉に仕えて多忙だったので、キリスト教を学ぶ時間が少なかったが、稀有な才能の持ち主であり、大いに期待できるとの評価だった(『日本史』)。官兵衛はフロイスから布教を推進する役割を期待され、実際に多くの人々を改宗に導いた。

 むろん、フロイスの官兵衛に対する評価も高く、フロイスは官兵衛を通してたびたび秀吉に要望を伝えた。しかし、官兵衛は秀吉の意に反し、キリスト教を棄教しなかったため、苦境に追い込まれる。なお、官兵衛がキリシタンであった事実は、『黒田家譜』にすら書かれていない。

■「海の司令官」小西行長

 小西行長は、隆佐の次男として誕生。キリスト教に入信し、アゴスチーニョという洗礼名を与えられた。天正16年(1588)、行長は前年の肥後国人一揆の平定に貢献し、恩賞として肥後国三郡(宇土、益城、八代)を秀吉から与えられた。

 その後、天草を併呑した行長は、イエズス会を積極的に支援した。天草には神父が派遣され、教会も建てられたので、多数のキリシタンが住んだ。キリシタンに教義を説いていたのが、イタリア人修道士のジョバンニ・ニコラオである。

 聖像学校では、聖像を描くべく油絵、水彩画、銅版画が教えられ、パイプオルガンや時計などが製作されるなど、布教の中心地となった。行長がたびたび『日本史』に登場するのは、その信仰心の厚さゆえである。

 天正15年(1587)、バテレン追放令が発布され、高山右近が失脚するなど、キリシタンは窮地に陥っていた。行長は処分を受けなかったので、イエズス会は彼に大いに期待していたようだ(『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』)。

 行長は朝鮮出兵でも活躍し、フロイスから「海の司令官」と称された。しかし、隣国の加藤清正とはキリスト教の信仰をめぐり、関係が悪化した。

■大絶賛された蒲生氏郷

 蒲生氏郷は、天正13年(1585)に大坂でキリスト教に入信し、宣教師のオルガンチノからレオンという洗礼名を与えられた。その2年後にバテレン追放令が発布されると、氏郷は表面的にキリスト教を棄教したふりをしたといわれている。

 天正18年(1590)、氏郷は会津へ移封すると、領民たちにキリスト教への改宗を勧めた。家臣の蒲生郷安、小倉作左衛門らの重臣の多くも、キリシタンであったという。現在の会津若松市内には、氏郷の命により三ヵ所の教会(天子神社と称した)の跡が残っている。猪苗代にも、同様に神学校(セミナリオ)があった。

 このように氏郷の信仰心は大変厚く、オルガンチノは「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と、ローマ教皇に報告したほどである。

 フロイスは熱心にキリスト教を信仰し、援助を惜しまなかった大名には賛辞を送った。逆に、キリスト教の布教を阻む者には、厳しい評価を与えたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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