【戦国こぼれ話】もう一つの天下分け目の戦い、賤ヶ岳合戦。柴田勝家が滅亡に至る過程を検証する

賤ヶ岳近くの余呉湖。この付近で、羽柴秀吉と柴田勝家は雌雄を決した。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 滋賀県長浜市の曳山博物館で企画展「長浜大秀吉展―春の陣」が開催され、「賤ケ岳合戦図屏風」が目玉として展示された。この戦い以降、柴田勝家が滅亡に至った経過を確認しよう。

■賤ヶ岳の戦いの概要

 天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死すると、後継者に名乗り出たのが羽柴(豊臣)秀吉だった。しかし、柴田勝家はこれを快く思わず、やがて織田信孝と結んで、秀吉と対立した。こうして勃発したのが賤ヶ岳の戦いである。

 賤ヶ岳の戦いが開戦したのは、天正11年(1583)4月21日の卯の刻(午前6時の前後2時間)である(『柴田退治記』)。

 勝家は越前、越中、能登、加賀の4ヵ国から、約6万の兵を率いていたというが、かなり誇張された数字だろう。一方の秀吉は秀長の軍勢が加わるに過ぎないなど、無勢だった。諸大名は各地に散っており、おまけに秀吉方の将兵は遠路の移動で疲れ切っていた。

 『川角太閤記』などによると、ここで大活躍したのが「賤ヶ岳の七本槍」(加藤清正・福島正則・片桐且元・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則)の面々である。いずれも、秀吉の子飼いと称される武将たちだ。

 勝家が敗北を喫したことは、『兼見卿記』『家忠日記』に書かれている。同年4月21日、秀吉は美濃の高木貞利に戦況報告を行った(「高木文書」)。この書状に拠れば、戦いが始まったのは、巳の刻(午前10時の前後2時間)となっている。

■秀吉の書状に書かれたこと

 秀吉の書状には、柴田勝家、佐久間盛政そのほか一人も漏らさず、ことごとく討ち果たしたと書いている。しかし、これは虚偽の報告であり、勝家も盛政も死んでいない。嘘をついたのは、自軍の優位を強調するためだろう。

 続けて、先手は越前府中(福井市)に向かったので、秀吉も明日には同地に侵攻すると結んでいる。なお、勝家はわずか4・5騎で逃げたとも記すが、事実か否かは不明である(「赤木文明堂文書」)。

 同じく4月21日、秀吉は堀秀政にも書状を送った(「上林三入文書」)。秀吉は夜に夜詰め(夜間の戦闘)を行うので、秀政に府中(福井市)に向かうよう依頼した。

 秀吉は疲れていないので府中に行くと述べ、秀政の将兵は疲れていないだろうから、このようなときはすぐに進軍するように、と書状を結んでいる。秀吉の精力ぶりをうかがえ、ここで一気呵成に勝家を叩こうという意気込みを読み取れる。

 秀吉は、どれくらい敵兵を討ち取ったのだろうか。小早川隆景宛の秀吉書状などには、5千余を討ち取ったとある(「小早川文書」)。先述した柴田軍の6万余の軍勢は多すぎる。100石で4人の軍役で換算すると、150万石の知行高が必要である。当時の勝家にはそれだけの動員力があるとは考えられず、多く見積もっても1万程度が妥当ではないだろうか。

 それならば、勝家方が5千余が討ち取られて瓦解したことは理解できる。『柴田退治記』の柴田軍の数に関する記述は、秀吉の要望による誇張であり、大軍を打ち破った秀吉の姿を強調するものだった。

■織田信孝の動き

 織田信孝は、勝家の敗北に焦りを感じていた。同年4月22日、信孝は家臣の小里光明に書状を送り、近江北部で中川清秀、高山右近を討ち取ったこと(右近を討ち取ったことは誤り)、勝家が敗北したことは秀吉の計略であると報じた(『川邊氏旧記』所収文書)。

 信孝が勝家の敗北を知っていたか否かは不明であるが、おそらくは知っていたと思われる。賤ヶ岳から岐阜までは、約50kmである。早馬を使えば、問題のない距離である。信孝は光明を安心させるため、秀吉の計略だといった可能性が高い。なお、光明は最後まで信孝に仕えたが、その死後は徳川家康の配下になった。

■北庄に逃げた勝家

 勝家は居城のある北庄(福井市)に逃亡したが、秀吉は追撃の手を緩めなかった。『柴田退治記』によると、勝家方の前田利家、徳山五兵衛尉らの諸将が秀吉に降参した。秀吉は勝家討伐を優先し、これを許した。

 同年4月23日、秀吉は軍勢を率いて北庄城に押し寄せた。籠城側は3千余の兵が入っていたにすぎず、敗勢は濃かった。勝家は天守に入ると、股肱の臣など上下を問わず、酒宴遊興に及んだ。

 その後、勝家と妻のお市は辞世を詠むと、自害に及んだ。勝家は妻らを刺し殺すと、自らも腹を切って五臓六腑を掻き出し、介錯された。残った股肱の臣の80余人も、あとを追って自害した。北庄城が落ちたのは、同年4月24日申の刻(午後4時の前後2時間)だった。

 このようにして秀吉は勝家を討ち、天下人への道のりをしっかりと歩んだのである。