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【戦国こぼれ話】政略結婚が大半だった戦国大名の結婚。武家家法に定められた婚約・結婚の決まり

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
現在の結婚は自由意思であるが、戦国時代は政略に拠るものだった。(写真:アフロ)

 先日、小室圭さんが自身の母親の借金問題について文書を公開し、結婚への思いが変わらないことを表明した。ところで、戦国時代においても婚約や結婚は重要なことで、武家家法にも規定があった。それらを確認することにしよう。

■戦国時代の結婚

 戦国時代の結婚に際しては、さまざまな制約があったことが知られている。戦国大名は家臣団を統制し、近国・遠国の大名との連携を図るため、結婚をその道具として利用していた。つまり、大名家の子女は、当人同士の自由意思で結婚はできなかったのである。

 そして、戦国大名の結婚はイコール同盟関係の締結を意味したので、武家家法で規制を行うなどしていた。それは家臣らの結婚にも及んだ。その事例をいくつか見ることにしよう。

■武家家法に見える結婚の取り決め

 下総国の戦国大名・結城氏は、自ら制定した武家家法『結城氏新法度』のなかで、結城家の家臣や他家の者も、承認なしに縁組みをしてはならないと定めている。

 同様に、東海地方の戦国大名・今川氏も武家家法『今川仮名目録』のなかで、駿府・遠江両国の家臣が今川氏の了解なしに、結婚をしてはならないと規定している。

 同じく甲斐の戦国大名・武田氏の武家家法『甲州法度之次第』のなかでも、家臣が他国へ縁者を求めることを堅く禁止している。

 結婚に関する規定は、ほぼ一律どの武家家法にも見られ、普遍的なルールとして確立していたことがわかる。それは家中統制のための止むを得ない措置であるが、この決まりを破った場合は、当主に背く意思があるとみなされても仕方がなかった。

■豊臣秀吉が制定した『太閤様御法度御置目』

 かの豊臣秀吉も、文禄4年(1595)に制定した『太閤様御法度御置目』のなかで、大名間の結婚は上意つまり秀吉の許可を得て行うべきことが条文に加えられている。当時、秀吉は天下人として、すべての大名を束ねる地位にあったので、このような規定を設けたのだ。

 大名が無断で結婚した場合は、厳しい罰が与えられた。それは、秀吉に対する反逆の意を示すものとして捉えられたのである。秀吉は天下人であったがゆえ、大名間相互の盟約となる無断での結婚を禁じることで、大名統制を図ろうとしたのである。

 ところが、秀吉の死後、五大老の1人・徳川家康は勝手に縁組みを進め、周囲から非難された。家康が結婚を通じて仲間を増やし、豊臣家に叛旗を翻そうとしていると考えられたからだ。家康が無断で結婚を進めたことは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の遠因にもなった。

■婚約の取り決め

 婚約についても、武家家法による定めがある。フロイスが『日本史』で述べているように、婚約に際しては母親の意向も尊重された。ただ、婚約に関する取り決めは、それぞれの大名の定めた武家家法によって、異なっていたようである。

 伊達氏の武家家法『塵芥集』の規定によると、父母両方の意見が異なる場合は、父親の意見が優先されたという。いずれにしても、男女間の自由意思による結婚には制約が加えられ、両親、特に父親の意見に重きがあったと考えられる。

 婚約破棄があった場合には、どのようになるのか。相良氏の武家家法『相良氏法度』には、男子が女子と婚約をしながら妻として迎えなかったときは、罪になると記されている。婚約は決して軽い約束ではなく、非常に重要なことだったのだ。

 またレアケースだと思われるが、『塵芥集』には婚約の決まった女子をほかの男子が奪った場合は、密懐(びっかい)すなわち浮気と同罪であると定められている。密懐の罪は重く、男女ともに死罪であった。この時代の浮気は、死に値するほどの重罪だったのだ。

 なお、現代でも有名人の二股交際が報道されているが、くれぐれも裏切り行為だけは止めてほしいものだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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