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【戦国こぼれ話】伊達政宗の「傾奇者」「伊達者」とは、いったいどういうものだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗の碑。政宗は、「傾奇者」「伊達者」として知られていた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 伊達政宗の手掛けた町割りを歩きながら学ぶ「伊達武将隊とまち歩き」が仙台市で催された。政宗といえば、「傾奇者」「伊達者」として有名である。それはいったい、どういうものだったのだろうか。

■伊達家の派手な軍装

 伊達政宗の「傾奇者」「伊達者」を物語る有名なエピソードが残っている。文禄元年(1592)2月、政宗は朝鮮出兵に際し、見事な軍装を施した軍勢を引き連れ上洛した。このとき政宗は、弱冠25歳。その様子は、次のようなものだった(『貞山公治家記録』)。

 幟には紺地に金の日の丸が描かれており、幟を持つ者は六糸緞(中国から渡来した繻子)の下着を身に着け、黒塗りの具足を着用していた。

 具足の後ろと前には、金の星がデザインされていたといわれている。黒と金が基調になっているのは、伊達家の軍装の特長でもある。

 なお、紺地というのには深い意味がある。紺は「勝色」といわれ縁起がよく、武将に好まれていた(実際は黒に近い藍色だった)。政宗の朝鮮出兵にかける意気込みが伝わってくるところだ。

 足軽の脇差の鞘には銀熨斗の装飾が施され、その形も特徴的であったという。刀の鞘は朱塗りで、太刀と変わりがなかった。

 騎馬武者30騎は、政宗から拝領した具足を身に着け、馬の毛色も「花麗」と伝わっている。彼らが身に着けた黒い母衣(鎧の背につける幅広の布)には、金の半月の図柄が描かれていた。

 壮麗だったのは足軽や騎馬武者の軍装だけではなく、馬も同様であった。馬には、豹皮、虎皮、孔雀の尾、熊皮などの「馬鎧」を着用させるものもあったという。騎馬武者はその馬に乗り、金熨斗の施された太刀の大小を腰に下げていた。

■「伊達者」という言葉の所以

 何より壮観だったのが、配下の遠藤宗信と原田宗時である。2人は普通通り刀・脇差を腰に下げ、さらに1間半(約2.7メートル)もある木の太刀を身に着けていた。

 木の太刀の真ん中あたりには金物が打ち付けられ、金の鎖で肩から吊り下げていた。当然、木の太刀は実用的なものではなく、装飾的な意味合いが強かったであろう。

 実はこのとき、徳川、前田、佐竹、上杉といった錚々たる大名も行軍していたが、あまり代わり映えしなかったので、見物人たちはさほど驚かなかった。

 しかし、政宗の一行が登場すると、群衆は賛美の言葉を口々にし、ほかの会話が通じないほどの喧騒ぶりであったという。以来、「伊達者」という言葉が定着したといわれている。

■なぜ伊達家の軍装は目立ったのか

 伊達家の軍装は、なぜ一番目立ったのであろうか。その理由は、人々が伊達家の軍装にこれまでにない、新鮮なものを感じたからにほかならないであろう。

 『政宗記』では伊達家の軍装について、「異表」という表現を用いている。「異表」とは「普通とちがっていること。変わっているさま」を意味する。つまり、伊達家の軍装は、ほかにはない珍しいものだったのだ。

 政宗の美的センスを象徴するのが、常に黒と金をメインとする色彩感覚である。この二色の取り合わせは、人々の目には派手に映ったらしく、まさしく新鮮な感動をもって受け入れられたようだ。黒を基調に据えるという政宗の色の取り合わせは、遺品である具足や陣羽織などでも確認できる。

 こうした政宗の華麗な軍装は、決して単なる思い付きで企画されたものではなかった。戦場は非常に過酷で、常に死と隣り合わせである。

 これから生死の境をさまよう、戦場独特の緊張感とあいまって、戦いにかける意気込みを強く主張したのが「伊達者」と称される軍装であった。軍装には戦場に向かうという高揚感、そして勝利を願う思いが結実したものと考えられる。

 つまり、伊達家の軍装は単に派手で目立つだけでなく、さまざまな思いが込められていたのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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