【戦国こぼれ話】朝鮮の史料にあらわれた豊臣秀吉の評価は、家臣を翻弄する「猿」だった

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 昨日、国際日本文化研究センター(京都市西京区)のフレデリック・クレインス教授と小川仁・機関研究員の調査により、『著名武将列伝』(1683年刊)が発見されたことに伴い、外国史料に書かれた豊臣秀吉の姿を取り上げた。こちら

 せっかくなので、今回は朝鮮側の史料に描かれた秀吉の姿を取り上げておこう。

■「猿」と呼ばれた豊臣秀吉

 秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。それは、秀吉に親しみを込めて呼ばれたようである。この点について、朝鮮の儒者・姜沆(カンハン)の著書『看羊録(かんようろく)』には、次のように記されている。

賊魁(賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申(天文5年・1536)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容姿が猿のようであったので結局(猿を)幼名とした。

 姜沆は文禄・慶長の役によって日本に連行されたので、秀吉には良い印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由による。

 1行目の秀吉の出生地に関わる情報は、何らかの形で入手したのだろう。いずれにしても、姜沆の目には秀吉の姿が醜く映っていた。多少の偏見があった可能性もある。

 ほぼ同時代に近い史料として、李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後に成立)があり、同史料には秀吉に謁見した朝鮮使節が次のような感想を記したことを書き留めている。

秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃(ひらめ)いて人を射るようであったという。

 背が低く容貌が卑しいというのは、姜沆の感想と一致している。また、小さい頃から肉体労働に従事していた秀吉は、よく日に焼けていたと考えられる。眼光が鋭いというのは、権力者特有の迫力が感じられたからであろう。小柄ながらも、秀吉は非常に野性味あふれていたに違いない。

■家臣を翻弄する秀吉

 秀吉の変わった人格は、別のところでも語られている。『看羊録』では、慶長3年(1598)における日本と朝鮮との講和に際し、秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について「(秀吉の)容貌や言辞の、思い上がった傲慢さは、想見するに思わず心が痛み、骨が削られるようである」と評価した。秀吉は、気分が不快になるほどの言葉を吐いていたのだ。

 続けて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿だった。次に、記事を掲出することにしよう。

(秀吉の)性質は、実に悪賢い。専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび、家康らを侮弄するのは、まるで赤子を弄(もてあそ)ぶような具合であった。また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり、一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。

 秀吉は自らの権力を背景にして、徳川家康ら名だたる武将をコケにして、「○○ごっこ」のような遊びに興じていた。秀吉自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、迷惑であったに違いない。

 秀吉の変わった行動は、次第にエスカレートした。『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を挙げておこう。

ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚(ぎちょう)の亜流である。ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに、それが偽りであることを知っていたのである。

 秀吉は死んだふりをしたあと、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかった意識しかなかったかもしれないが、家臣は心臓が止まるような思いをしたに違いない。しかし、現実に秀吉のイタズラ好きは有名で、上層の家臣は慣れっこになっていた。

 ちなみに曹操の疑塚とは、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後に埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。

■どこまで信じてよいのか

 朝鮮側の史料に書かれた秀吉の評価は、どこまで信じたらよいものか不安な点があるのも事実である。こうした秀吉の姿は、日本側の史料に書かれることがないからだ。しかし、秀吉の諸大名や家臣に対する高圧的な態度は周知のことなので、案外当たっているのかもしれない。