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【「麒麟がくる」コラム】豊臣秀吉はもともと中国人だったのか。朝鮮側の史料から検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉は貧しい家の出だといわれているが、中国人だったとの説もある。(写真:アフロ)

■豊臣秀吉は中国人だった!?

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、佐々木蔵之介さんが羽柴(豊臣)秀吉を好演している。秀吉は貧しい家の出自だったといわれているが、実は中国人だったとの説もある。

 以下、朝鮮側の史料を用いて考えることにしよう。

■『看羊録』に書かれた豊臣秀吉

 織豊期の朝鮮側の史料として、朝鮮の儒学者・姜沆の著書『看羊録』がある。そこには、「(秀吉の)父の家は、元来貧賤で、農家に雇われてどうにか活計(生計・生活)をたてていた」という記録が残されている。

 この記述は、秀吉が貧しかったという点で一致する。姜沆は16世紀末期における文禄・慶長の役によって、日本に連行されていた。『看羊録』は、そのときの見聞をまとめたものである。当該期における、貴重な史料といえよう。

 さらに『看羊録』には、次のような記述がある。それは秀吉が朝鮮出兵する以前、中国人が薩摩に漂着し、明に日本の内情を詳しく報告するということがあった。

 その際、秀吉は「昔から、帝王はみな下々から起こったものである。大明に、私がもと賤しかったことを知らしめたとしても、何ら害になることはない」と申し伝えている。

 こうなると、半ば開き直りとも取れる発言である。結局、漂着した中国人の罪は不問となった。重要な秘密が秀吉の出自であったことは、誠に興味深いところである。

 姜沆が亡くなったのは、1618年である。それから約40年を経て、弟子によって『看羊録』はまとめられた。上記の説が史実か否かは、さらに検討を要しよう。

■秀吉は中国人だった?

 ところで、朝鮮側の史料には、秀吉の出自に関するユニークな異説が存在する。それは、李氏朝鮮の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後に成立。著者は李朝の宰相・柳成竜)に載せる次の記事である。

(秀吉はもともと)中国人で、倭国に流れこんで薪を売って生計をたてていた。ある日、国王(織田信長)が外出中にたまたま道端で出会い、その人となりを尋常でないのを見て、(秀吉を)配下の軍列に加えた。(秀吉は)勇敢で、力があり、戦上手であったので、たちまち功績をあげて大官に出世し、権力も振るうようになって、ついに源氏の政権を奪ってこれに代わったのだ。

 これは、「ある人が言った」ということになっているが、秀吉が中国人であったという説は誠に興味深い。ただし、秀吉が中国人であったという史料的な根拠は、これまで見つかっていない。誤伝と考えてよい。

 秀吉が薪売りだったというのは、ほかの史料に書かれた見解と共通する認識である。『懲毖録』は、一連の文禄・慶長の役を取り上げた記録である。

 そうなると、最初に秀吉が侵攻しようとしたのが中国の明とするならば、案外、中国出身の秀吉が捲土重来を期して大陸侵攻を行ったと勝手に考えたのかもしれない。

 あるいは、たかだか日本人が朝鮮半島を攻略するなどもってのほかで、秀吉は日本人ではなく中国人なのだと悔し紛れに考えたのか、もはや想像するしかないようだ。

 ただ、さすがに中国人を出自とする考え方は、大きな疑問が残るところであり、何ら根拠がない風説にすぎないと考えるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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