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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の丹波攻略で難敵となった「名高キ武士」「丹波の赤鬼」赤井直正とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「丹波の赤鬼」こと赤井直正は、『甲陽軍鑑』で「名高キ武士」と称された。(提供:tada/イメージマート)

■丹波の雄・赤井直正

 大河ドラマ「麒麟がくる」の第38回「丹波攻略命令」では、赤井直正の名前がチラリとだけ出ていた。しかし、残念ながら、その姿はテレビ画面で確認できなかった。

 丹波で強い存在感を示した赤井直正とは、いったい何者だろうか。

■赤井直正とは

 直正が時家の次男として誕生したのは、享禄2年(1529)のことである。時家の嫡男は家清で、合戦のたびに大いに軍功を挙げたという。

 嫡男が家督を継ぐのが習わしだったので、次男の直正は同族で丹波黒井城(丹波市)主の荻野氏の養子となった。以降、直正は荻野を姓とする。直正の妻は、同じ丹波の国衆・波多野元秀の娘だったという。

 直正は元秀の娘と死別し、近衛前久の妹を後妻として迎えたというが、近衛家とは家の格が違いすぎるので、その点は大いに疑問が残る。

 その後、外叔父の荻野秋清が反逆を企てたので、直正はこれを討って黒井城を奪取した。以後、直正は「悪右衛門」と称され、「丹波の赤鬼」と恐れられるようになったのである。

 「悪」には文字通り「悪い」という意味もあるが、性質、能力、行動などがあまりに優れているのを恐れていう意味もある。こうして直正は、荻野氏の盟主となったのだ。

■織田信長との関係

 日の出の勢いの直正だったが、行く手を阻む勢力があらわれた。織田信長である。永禄11年(1568)11月、信長は足利義昭を推戴して上洛し、畿内の政治情勢は一変した。

 しかし、直正は信長に抗することなく、素直に従ったようである。永禄13年(1570)3月、信長は忠家に対して、家督の安堵状を与えた。これこそが臣従の証であろう。これにより、赤井氏の丹波奥三郡の支配が信長により保証された。

 信長と義昭は二重政権化において、互いに助け合いながら政治を行っていたが、2人の関係は徐々に悪化し、元亀4年(1573)1月になって決裂した。

 2人の抗争が表面化すると、直正は義昭に与した。一時は義昭方として京都に出陣する風聞が流れたが、結局は噂だけに止まり実現しなかった。

■信長との対決

 以来、直正は反信長の旗幟を鮮明にした。天正元年(1573)8月、義昭は直正に書状を送り、梅仙軒なる者が西国に下向するので、路地を問題なく通ることができるよう依頼した(「赤井文書」)。

 梅仙軒は、義昭の使者として毛利氏のもとに向かったのだろう。義昭は、直正を頼りにしていたのである。義昭が毛利氏の庇護を求め、備後鞆(広島県福山市)に向かったのは天正4年(1576)のことである。

 こうして直正は義昭に味方し、信長との対決を決意したのである。

■「名高キ武士」といわれた直正

 もっとも注目すべきは、天正2年(1574)に比定される2月6日付の武田勝頼の書状(直正宛)である(「赤井文書」)。

 この勝頼の書状によると、前年の10月17日に直正は勝頼に書状を送り、勝頼は到着した直正の書状を読んだという。直正の書状は使者が携えたもので、使者が勝頼に口頭で書状の内容を補足説明したという。この勝頼の書状は、直正への返事なのである。

 勝頼は直正が信長と戦っていることについて、その武勇と戦功を褒め称えた。そのうえで、しばらくしたら信濃の境の雪も解けるであろうから、尾張・美濃に攻め込み信長と合戦に及ぶので、ご安心いただきたいと述べている。

 直正は勝頼と連携し、信長を討伐しようとしていたのだ。こうした動きが後世に伝わり、『甲陽軍鑑』の「名高キ武士」という、直正を評価する言葉に反映されたのかもしれない。

 なお、光秀による丹波攻略については、また改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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