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【深掘り「麒麟がくる」】光秀と義昭の本当の関係は? 近江領有で起きた変化

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
坂本城跡に建てられた明智光秀の像。光秀は織田信長から多大な恩賞を与えられた。(写真:ogurisu/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第35回「義昭、まよいの中で」は、足利義昭と織田信長が対立する中で、間に入った明智光秀が悩み苦しむ姿が描かれていた。今回は、足利義昭、織田信長、明智光秀の関係に絞って、検証することにしよう。

■第35回「義昭、まよいの中で」を振り返って

 第35回「義昭、まよいの中で」の内容を簡単に振り返っておこう。

織田信長(役・染谷将太さん)や配下の木下藤吉郎(役・佐々木蔵之介さん)は、室町幕府や将軍の足利義昭(役・滝藤賢一さん)をないがしろにし、朝廷との関係を重視した。明智光秀(役・長谷川博己さん)はその方針を危惧するばかりである。一方、摂津晴門(役・片岡鶴太郎さん)は信長の力を削ぐため、その重臣である光秀を暗殺しようと画策する。そして、将軍から茶会に招かれた光秀は、晴門の手下に襲撃された。

 大河ドラマでは、信長が朝廷の関係重視に傾き、幕府や将軍をないがしろにしていた。以下、その辺りについて、考えることにしよう。

■義昭の上洛時にさかのぼって考える

 信長が義昭を推戴して上洛したのは、永禄11年(1568)10月のことである。信長の助力によって、義昭は室町幕府の再興と征夷大将軍就任という悲願を果たした。翌永禄12年(1569)1月、信長は9ヵ条にわたる『殿中御掟』を制定し、その2日後に7ヵ条の掟を追加した。

 『殿中御掟』は将軍への直訴を禁止するなどの訴訟の規定、幕府の役人の勤務形態などを定めたものだ。この『殿中御掟』を義昭を規制するものと評価する向きもあるが、実際は幕府の先例にならった規定なので、むしろ再興した幕府を後押しするようなものと考えるべきだろう。

 つまり、この時点で信長は、義昭や幕府を支援していたということになる。

■信長の意図

 信長が義昭や幕府を支援したのには、もちろん理由がある。それは、天下静謐にあった。当時の天下は日本全国を意味するのではなく、京都を中心とした畿内を指していた。

 ちょうど天下の示す範囲は、朝廷や幕府の支配領域である。そして、朝廷を支えることも、幕府の重要な仕事の一つだった。幕府と朝廷が安泰であれば、天下は静謐となるのだ。

 信長が義昭を推戴して上洛したのは、のちに義昭を傀儡化するため、あるいは最初から幕府を潰すためという考え方もあったが、今では否定的な見解が強い。

 信長は決して自分が義昭に取って代わるという、私利私欲のために上洛したのではなかった。この点は非常に重要であるように思う。

■『殿中御掟追加五ヵ条』の意義

 翌永禄13年(元亀元年・1570)1月、信長は5ヵ条にわたる『殿中御掟追加』を制定した。こちらは、これまでの掟とは内容を異にしており、解釈についてもさまざまな意見がある。

 内容は非常に厳しいもので、義昭が御内書を出す場合は、信長の副状を添付することが冒頭に書かれている。重要な点を列挙すると、以下の2つの規定が注目される。

(1)これまで義昭が出した命令は全て無効とし、よく考えた上で決定すること。

(2)天下の政治は信長に任せたのだから、将軍の上意を得ず、信長自身の判断で成敗を加える。

 これは義昭の権限を規制するもので、両者の決裂の契機になったのではないかといわれている。一方において、この掟は2人の政務における役割分担を決めたもので、対立関係にあったわけではないとの指摘もある。あるいは、信長が「准管領」の立場で幕政に参与する際、要望を述べたものと評価する向きもある。

■光秀の立場

 では、光秀の立場はどうだったのだろうか。光秀は信長と義昭に両属していたが、やがて義昭への仕官を嫌がるようになったことが判明する。

 元亀2年(1571)に比定される月日未詳の明智光秀書状(「神田孝平氏所蔵文書」)には、出家をする覚悟で、義昭から暇をいただきたいと曽我助乗に仲介を依頼したことが書かれている。

 なぜ、光秀が義昭のもとを離れたがったかは不明であるが、少なくとも仕えることにメリットを見いだせなかったからだろう。この頃から信長と義昭の不和が顕在化したならば、首肯できる。

■果たして真相は

 当時、光秀が義昭に対する思いを明確に書いた一次史料はない。しかし、あえて筆者なりに考えを述べておくと、次のようになろう。

 言うまでもないが、主君と家臣の関係で重要なのは、御恩と奉公の関係だ。主君は家臣に領地などの恩賞を与え、家臣はその恩に報いるため懸命に戦う。

 元亀2年(1571)9月の比叡山の焼き討ち後、光秀は信長から近江志賀郡を与えられた。したがって、光秀が信長に忠節を尽くすことは当然のことである。

 また、光秀は義昭にも仕えていたといわれているが、実際は付家老的な存在で、単なる幕府との交渉窓口あるいは京都を共同で支配するパートナーにすぎなかっただろう。

 結論を言えば、大河ドラマのように光秀が義昭に命懸けで忠節を尽くすとは考えられない。同時に、信長が朝廷を重視するのは、当時の人々の考え方からして、当然のことといえる。

 大河ドラマはフィクションなので、想像の翼を大きく広げた内容になっているが、史実と照らし合わせてみれば、ストーリーは無理筋といえよう。光秀は、お人好しではなかったと思う。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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