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【戦国こぼれ話】裏切りには気を付けろ!関ヶ原合戦において、小早川秀秋は土壇場で西軍を裏切ったのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原合戦で貢献した小早川秀秋は、備前・美作を与えられ、岡山城を居城とした。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■裏切者はどこにでもいる

 今年大ブレイクしたテレビドラマ「半沢直樹」は社員の裏切りの連発で、互いに疑心暗鬼になった。しかし、それは現代に限ったことではなく、戦国時代にもあった。

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦において、東軍が勝利した決定打は、西軍に属していた小早川秀秋が土壇場で東軍に寝返ったからだといわれている。

 果たして、それは正しいのだろうか。

■通説を確認する

 関ヶ原合戦の勝敗を決定付けた理由は、小早川秀秋が土壇場で西軍から東軍に寝返ったからということが通説になっている。通説によると、秀秋は西軍に与するか東軍に与するか決めかねたまま、松尾山に着陣したという。

 そして、合戦がはじまると、徳川家康は動かない秀秋の態度に業を煮やし、「西軍に攻め込め!」という意味で松尾山に鉄砲を撃たせた。これが「問い鉄砲」である。

 秀秋は家康に攻撃されるのではないかと驚倒し、ただちに西軍の大谷吉継の陣に突撃したといわれている。これにより西軍は総崩れとなり、東軍が勝利を手にしたというのだ。

 ところが、現在の研究では誤りであると指摘されている。以下、経緯を触れておこう。

■西軍に属した秀秋

 慶長5年(1600)に上杉景勝の謀叛が露見した頃、秀秋の家臣・稲葉正成が使者として伏見へ赴いた。対応した家康の側近・山岡道阿弥は、上方(大阪・京都方面)で逆心の者があれば、忠節を尽くすよう述べたという(『寛政重修諸家譜』)。

 その直後の同年7月、石田三成、毛利輝元らが決起し、徳川家康に反旗を翻した。最初に血祭りになったのは、家康配下の鳥居元忠が籠る伏見城(京都市伏見区)だ。

 しかし、秀秋は東軍に与したかったにもかかわらず、意に反し西軍として行動した。結局、秀秋は伏見城攻撃に加わり、落城に貢献した。

 上方方面(京都・大坂)にいた秀秋は、西軍の武将が多数いるなかで、「東軍に与する」とは言えなかったに違いない。秀秋は、心ならずも西軍に与したということになろうか。

■黒田長政・浅野幸長の連署書状

 伏見城落城後、秀秋は相変わらず西軍の一員として行動していた。やがて、秀秋には東軍に寝返るよう、内応を迫る書状が届けられた。

 同年8月28日付の黒田長政・浅野幸長の連署書状(秀秋宛)は、秀秋に東軍への寝返りを依頼したものである(「桑原羊次郎氏所蔵文書」)。

 内容を確認すると、長政と幸長は秀秋に対し、恩義ある北政所への忠節を説き、東軍に与するように呼び掛けたことがわかる。秀秋の心は、動いたに違いない。

■秀秋の寝返り

 長政と幸長の説得が功を奏したのか、同年9月14日、稲葉正成・平岡頼勝宛ての井伊直政・本多忠勝の連署起請文によると、秀秋は家康に与することを約束したことが判明する(『関ヶ原軍記大成』所収文書)。

 つまり、秀秋は合戦前日の時点で、東軍に味方すると約束したのだ。通説によると、先述した家康の「問鉄砲」により、東軍へ寝返って西軍に攻め込んだとされてきたが、それは誤りだったのだ。

■通説の誤り

 また、近年の研究によって、秀秋は開始早々に東軍の一員として、西軍の陣営に攻め込んだことが指摘されている(白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社)。

 それは、たしかな一次史料に基づくもので、揺るぎようのない事実である。したがって、従来説の「問鉄砲」による、秀秋の土壇場での裏切りは誤りであると指摘されているのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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