【戦国こぼれ話】戦国時代の天皇家は「衰微」していたのか?厳しい懐具合だったのは事実なのだろうか?

人々でにぎわう京都御所。戦国時代の天皇は厳しい財政状況で苦しんでいた。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■スムーズな譲位

 昨年、譲位が行われ、年号も「平成」から「令和」に改まった。円滑に譲位が行われたわけであるが、戦国時代はそうではなかった。そこには天皇家の厳しい財政事情が絡んでいた。

 なぜ戦国時代には、スムーズに譲位ができなかったのか?厳しい懐事情などに触れながら、確認することにしよう。

■徐々に衰退した天皇の権威

 古代においては、政治の中心であった天皇家。12世紀に初めての武家政権である鎌倉幕府が成立すると、その影はすっかり薄くなった。

 承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府と対決すべく兵を挙げるが(承久の乱)、失敗。幕府の威勢はますます上昇し、天皇家の権威は失墜した。

 鎌倉時代末期に後醍醐天皇が建武政権を樹立すると、天皇家の存在はクローズアップされたが、政治が失敗に終わるとさらにその力は急降下した。それゆえ、以降の天皇家は「衰微」したといわれてきた。

■応仁・文明の乱の衝撃

 応仁元年(1467)に勃発した応仁・文明の乱以降、天皇の経済的基盤である各地の荘園が武家に侵略され、収入が著しく減少した。

 それは、天皇に仕える公家も同じである。応仁・文明の乱では兵火に見舞われ、また御所の傷みもひどかったのであるが、もはや修繕費用にも事欠く有様であった。当時の天皇だった後土御門は、大いに悩んだ。

■譲位ができなかった財政事情

 もっとも問題だったのは、天皇が位を譲って上皇となることができなかったことだ。それは財政難が大きな理由で、新天皇の即位式などの費用が賄えなかった。

 上皇となって院政をすることは「悪」だと思われがちだが、それは正しくない。平安時代から幕末にかけて、院政を行うことがスタンダードだった。

 逆に、現役の天皇のままで生涯を終えることが異常だったのだ。したがって、後土御門天皇は譲位をして上皇になれなかったので、大いに困ったのである。

■火葬されなかった遺骸

 後土御門天皇は天皇家が衰退する中で、朝儀復興に尽力するなど、涙ぐましい努力を行った。しかし、明応9年(1500)9月28日、後土御門天皇は譲位ができないまま病気で亡くなってしまう。

 しかし、ここからが問題であった。天皇の遺骸は、なかなか火葬されず、何と44日間も放置されていた。泉涌寺で火葬されたのは、同年11月11日のことである。

 その跡を継いだのは後柏原天皇であるが、やはり悲劇が待ち構えていた。政治的な混乱が著しかったことや経済的な問題もあって、即位式を挙行するのに22年もかかったのである。

 あまりに貧しかったせいか、和漢の才に優れた公家の三条西実隆の門には「やせ公卿の 麦飯だにもくひかねて 即位だてこそ 無用なりけち」という落書が貼られたほどである。

 結局、後柏原天皇も上皇になることなく、大永6年(1526)4月7日に亡くなったのだ。

■官位を売って糊口を凌ぐ

 後柏原天皇の跡を継いだ後奈良天皇は、武家に金品と引き換えに官位を与えたり、自身が筆を執った書を売ったりするなど、相変わらず経済的な苦境が続いた。後奈良天皇も上皇になることなく、弘治3年(1557)9月5日に亡くなった。

 後継者の正親町天皇は、さまざまな面で織田信長の支援にすがりつくほかなく、正親町の跡を継いだ後陽成天皇も豊臣秀吉の経済的な支援に頼らざるを得なかった。非常に財政状況が厳しかったのである。

■著しい困窮ではなかった

 ただ冷静に考えて見ると、天皇家は別に飯が食えないなどの困窮ではなかった。必要な年中行事や儀式(即位式など)が行えなかった点が問題だったようだ。

 当時、年中行事や儀式を行うには、莫大な費用が掛かった。戦国時代の天皇は費用を捻出すべく、各地の大名に資金の提供を呼び掛けたが、十分な額が集まったわけではない。また、先例にのっとり儀式を行う気持ちが強かったので、略式で行うこともなかった。

 したがって、あくまで年中行事や儀式の費用が問題であって、生活に困っていたわけではなかったのだ。