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【戦国こぼれ話】徳川家康は大坂夏の陣で死んでいたのか?噂の真相を徹底して検証してみる。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康の遺体は久能から日光東照宮でなく、実は堺市の南宗寺に移送されたという。(写真:kawamura_lucy/イメージマート)

■重要人物の死はトップシークレット?

 現代社会において、国家元首が亡くなった場合は、速やかにその旨がメディアを通して国民に知らされる。しかし、未だに民主的でない国の場合は別で、その死を隠そうとすることが珍しくない。

 通説によると、徳川家康は元和2年(1616)4月17日に亡くなったとされているが、実は大坂夏の陣で殺害されたとの説が伝わっている。それだけでなく、影武者がいたとも!その真相とは?

■徳川家康の碑に書かれたこと

 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣家は滅んだが、勝者の徳川家康にまつわるユニークな逸話が残っている。それは、家康が大坂夏の陣で殺害され、しばらく影武者が代役を務めたというものだ。

 昭和42年(1967)、大阪府堺市南旅籠町の南宗寺に徳川家康の碑が建立された。碑を建てたのは、徳川御三家の水戸藩家老の子孫・三木啓次郎氏である。

 この碑には大坂夏の陣における、家康の生死をめぐる説が記されており、同寺の家康の墓こそ本物であるというのだ。もちろん、家康が殺害されたという逸話も伝わっている。

■後藤又兵衛が家康を殺した!?

 慶長20年5月の大坂夏の陣において、家康は豊臣方の後藤又兵衛の猛攻を受け、逃亡中に駕籠の中で槍に突かれたという話がある。重傷を負った家康は駕籠の中で虫の息となり、堺の南宗寺に到着した頃には、ついに絶命していたという。

 家康の死が広まれば、戦線は大混乱に陥り、徳川方から裏切り者が続出しかねない。瀕死の豊臣家に勢いが出るだろう。そうなると徳川方は勝利を逃すどころか、江戸幕府の土台がすっかり揺らいでしまう。

 そこで、家康の側近・大久保彦左衛門は一計を案じ、家康と風貌がよく似ていた古河城(茨城県古河市)主・小笠原秀政を影武者に仕立て上げた。そして、約1年もの間、幕府の体制が十分に整うまで、秀政を家康の影武者として押し通したというのである。

 つまり、大坂夏の陣以降から1年の間の家康は、影武者・小笠原秀政であったことになる。こうして秀政が家康の影武者だったという説が広まった。そして、南宗寺には家康の墓があるというのだ。

■家康の遺体の移葬

 第二次世界大戦の空襲により、南宗寺内の開山堂が焼失した際、卵形の無銘の墓石が床下跡で見つかった。これこそが家康の墓といわれているが、なんらかのたしかな証拠があるわけではない。

 元和3年(1617)3月、家康の遺体は久能山(静岡市駿河区)から日光東照宮(栃木県日光市)に移葬された。ところが、移葬された先は日光東照宮ではなく、南宗寺だったという異説がある。

 その事実を裏付けるかのように、元和9年(1623)7・8月に2代将軍・秀忠と3代将軍・家光が相次いで南宗寺を訪れ、家康の遺徳を偲んだと伝わる。2人が南宗寺を訪れた理由は、もちろん家康の墓があったからだ。

 秀忠と家光が南宗寺を訪れた事実によって、家康の遺体が南宗寺に移葬されたのは明らかだと指摘されている。また、南宗寺の近くには家康が通ったという「権現道」もあり、それは家康にちなんで名付けられたといわれている。

■根拠のない逸話

 このように、家康は大坂夏の陣で殺害され、影武者が存在したという逸話が広まった。さらに、その遺体は最終的に堺市の南宗寺に葬られたというが、それらが事実か否かはまったくの不明である。

 いや、たしかな証拠がない以上、事実と認めるわけにはいかないだろう。上記の逸話は豊臣方に心寄せるものが創作したもので、「後藤又兵衛ほどの豪の者なら、家康を討ち取ったに違いない」という思いを投影したにすぎないのではないだろうか。

 家康の影武者や墓の話も同じことで、家康が殺害されたことを正当化するためのつじつま合わせにすぎない。やはり、家康は通説通り、元和2年(1616)4月17日に没したとすべきである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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