【戦国こぼれ話】豊臣秀吉は無理難題にどう対処したのか?墨俣一夜城の築城の真相とは?
■今でもある無理難題の強要
会社に勤めている方は、上司あるいは上層部から無理難題を吹っ掛けられ、大変困った経験があるはずだ。中には、心身を病んでしまった方がいるかもしれない。
戦国時代には、無理難題を克服した多くの驚愕すべきエピソードがある。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉。以下、秀吉で統一)による墨俣一夜城の築城の話も、その一つである。その真相はいかに。
■失敗した築城
豊臣秀吉には軍事の天才とのイメージがつきまとい、多くの逸話・伝説というべきものが残っている。その中でも特に有名なのが、現在の岐阜県大垣市に築城されたという墨俣一夜城であろう。念のために、墨俣一夜城の概要について説明しておきたい。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元に勝利を得た織田信長は、美濃斎藤氏の攻略に乗り出した。美濃の大名・斎藤龍興の拠点は、難攻不落の稲葉山城(現在の岐阜城)であった。
信長は稲葉山城を落とすため、重臣らに交通の要衝である墨俣に出城を築くよう命じたのがはじまりである。しかし、信長の命を受けて築城に挑んだ、重臣の佐久間信盛、柴田勝家はことごとく失敗した。信長が頭を抱えたことは、もちろん言うまでもない。
■自ら名乗り出た秀吉
信長の命を受けて、墨俣城築城という難事業をやってのけたのは、まだ新参者の秀吉であった。しかも、それは秀吉が「7日で完成させる」と自ら志願したものだった。
永禄9年(1566)6月、自ら名乗りを上げた秀吉は、美濃斎藤氏の勢力を翻弄しながら、約束より早くわずか一夜で城を完成させた。それは雨によって戦いが中断した時点で、材木を川の上流から流し、すぐに組み立てるという奇抜な方法だった。
しかも、墨俣城は天守を備えた立派なものであったという。秀吉はこの功によって、信長から金・銀などの褒美を授けられた。これが、秀吉の大出世の糸口になったのである。
■信頼できる史料には書いていない
この話は、江戸時代後期に成立した『絵本太閤記』に記されたものである。ただ、『絵本太閤記』は脚色が多いゆえに、あまり信が置けない史料でもある。いや、史料ではなく、小説つまり単なる創作物である。
近年では、尾張の土豪・前野家の動向を記した『武功夜話』という史料が紹介され、墨俣一夜城に関する詳細な記録を見ることができる。しかし、『武功夜話』自体が創作された史料である可能性が高く、否定する見解が多数を占めている。
編纂物の中でも『甫庵太閤記』には、美濃の新城に入ったとの記述があるものの、特に一夜で城を築いたとの記述を見ることはできない。むろん、『甫庵太閤記』も史料としては信が置けない。
■怪しい墨俣一夜城の存在
墨俣一夜城の話は、たしかな史料にまったく取り上げられていないのが実情である。秀吉が信長の美濃侵攻に従ったことはあったとしても、墨俣一夜城に関しては再度見直す必要があろう。
現時点において、墨俣一夜城はなかったという説が有力になっている。あるいは、秀吉が急いで作ったのは砦くらいの小規模なもので、とても城と呼べるような規模ではなかったのではないだろうか。
このように、秀吉には後世の編纂物によって、軍事の天才に仕立て上げられた感がある。当初、小さな事実に過ぎなかったことが、徐々に脚色されたのであろう。
無理なものは無理である。歴史上の荒唐無稽な話には、十分に注意すべきだろう。