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【戦国こぼれ話】戦国時代も厳しい成果主義だった!なぜ佐久間信盛は織田信長に追放されたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
頭を抱えるビジネスマン。仕事に失敗して、困ったことは誰にでもあるだろう。(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

■昔も成果主義だった

 先日、大塚家具の社長の退任が発表された。原因は業績不振によるものだ。この件に限らず、今の企業は成果主義で厳しく、今日まで部長だった人が明日から平社員に降格という人事も珍しくない。

 しかし、こうした厳しい人事評価は今からはじまったことではなく、戦国時代にも見られた。以下、織田信長の家臣・佐久間信盛の例を確認しておこう。

■佐久間信盛の失脚

 佐久間信盛は尾張の出身。最初は織田信秀に仕え、その死後は子の信長の配下となった。信盛は長篠の戦い、越前および長島の一向一揆で軍功を挙げ、重臣に処遇された。しかし、天正4年(1576)以降、大坂本願寺の攻撃を信長から命じられたことが、信盛の運命を変えた。

 信盛は大坂本願寺を攻めあぐね、苦戦していた。そして、天正8年(1580)8月、信盛は信長から19ヵ条の折檻状を突きつけられ、これまで築いた地位をあっという間に失ったのだ(『信長公記』)。

 主たる理由は、長年にわたる大坂本願寺攻略の失敗である。信盛は織田家譜代の家臣であり、信長家臣の中でも重んじられていた。しかし、その信盛でさえも、信長から非常に辛辣な言葉で厳しい評価がなされている。その概要を確認しておこう。

■信盛への厳しい評価

 真っ先に信盛が非難されているのは、4年もの大坂本願寺攻略において、まったく成果を挙げていないことだ。信長は世間が不審に思っていることは疑いなく、筆舌に尽くし難いという感想を述べている。

 それだけではない。信盛は大坂本願寺に調略を行うなど努力することもなく、ただ漫然と対処していたことを非難されている。信盛はまったくの無策だったのだから、信長の激しい苛立ちが理解されるところだ。

 もちろん、信長が怒る理由はあった。信長は信盛を取り立てて、大坂本願寺攻撃に際しては、三河など7ヵ国の武士を与力として付けるなど厚遇していた。にもかかわらず、信盛がこの体たらくだったので、信長は怒り心頭だったのだ。

■ほかの家臣との比較

 一方において、信長は羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、池田恒興、柴田勝家の活躍ぶりを称賛した。信盛もいたたまれない気持ちになったに違いない。

 信盛への非難はまだまだ続く。信長は信盛に対して、自分の家臣に加増をせず、新しく家臣を召し抱えることもなく、蓄えに執心してけち臭いなど、およそ武篇道に沿った行動をしていないと叱責の言葉を続けた。ほかにも、信盛は信長に言い訳や口応えもしていたらしい。

■御恩と奉公

 当主と家臣との基本的な関係は、御恩と奉公だ。家臣は当主のために懸命に働き、当主はその奉公に報いて恩賞を与えた。信盛はそれをしていなかった。

 武篇とは戦場で勇ましく戦うことを意味したが、やがて戦争にかかわる心構えや準備を指すようになった。まさしく信盛には、武篇道が欠けていたというのだ。

 この直後、失脚した信盛は長男・信栄とともに高野山(和歌山県高野町)へ向かい、出家の生活を余儀なくされた。この翌年、信盛は紀伊国熊野(高野山という説もある)で非業の死を遂げる。ただ、子の信栄は2年後の天正10年に許されて、織田信忠(信長の子)に仕えた。

■使えない人材はオシマイ

 信長による大変厳しい処分であったが、打ち続く戦いの中で、信盛は「使えない人材」として淘汰されたということになろう。

 こうした例を挙げるまでもなく、信長の家臣は絶えず強いプレッシャーにさらされ、いつその地位を失うか怯えなくてはならなかった。それゆえ信長に叛旗を翻す者も少なくなかったのだ。

 現代社会は厳しい成果主義。佐久間氏のようにならないよう、絶えず頑張り続けないといけないようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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