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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀はひ弱な教養人か!?その恐るべき人物像と性格に迫る!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
フロイスが信仰したキリスト教。戦国時代に日本でも布教が行われた。(写真:アフロ)

■謎多き光秀の人物像と性格

 自民党総裁選に立候補した石破茂氏は、歴史上の好きな人物として明智光秀を挙げた。光秀は敗者であるが、歴史を作った人物として評価している。とはいいながらも、光秀の人物像や性格については、必ずしも明確に伝わっているわけではない。以下、光秀の人物像や性格について考えてみよう。

■光秀の印象

 光秀は『愛宕百韻』で発句を詠むなど、インテリあるいは教養人のイメージが強い。光秀には武将としての力強さは感じられず、織田信長の激しい暴力や屈辱的な扱いにも反抗することなく、ひたすら耐えただけの印象が残る。しかし、光秀の人物像や性格を細かく述べた当時の日本側の史料はない。

 光秀に教養人としての姿を見る一方、戦いのなかで見せる光秀の作戦は、八上城(兵庫県丹波篠山市)を兵糧攻めにするなど残酷な一面があったことも否定できない。史料が伝える光秀の人物像や性格は、対極的である。戦争で残酷な行為をするのは普通のことで、別に光秀特有のものではない。ほかに光秀の人物像や性格を伝える史料はないのだろうか。

■『日本史』という史料

 実は、フロイスの『日本史』を一読すると、かなり狡猾な光秀像が浮かんでくる。『日本史』とは、どのような史料なのか。

 永禄6年(1563)、ルイス・フロイスはカトリックの男子修道会のイエズス会から派遣され、肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸した。天正7年(1579)に日本巡察使のヴァリニャーノが来日すると通訳を務め、3年後には日本副管区長付司祭として『日本年報』を執筆するようになった。そして、翌天正11年からは、ザビエルの来日以後の布教史をまとめた『日本史』の執筆を命じられたのである。

 『日本史』は全3巻から成っており(一巻は断片的に残存)、天文18年(1549)から文禄3年(1594)までの期間を記録している。フロイスは『日本史』の執筆にすべてを捧げ、ときに1日に十数時間も机に向かうこともあった。フロイスは大変な記録魔であり、それゆえ『日本史』の叙述は極めて精密で大部になったのである。結局、『日本史』の原稿はマカオの修道会に埋もれたままとなり、不幸なことに1835年の火災で原本が焼失したため、現存しているのは写本である。

 『日本史』の史料的な評価はさまざまである。好奇心旺盛なフロイスは戦国武将だけでなく、多くの出来事に関心を持ち書き留めたため、同時代の一級史料として評価されている。フロイスの情報収集能力と観察眼は、群を抜いて優れていたといえる。一方、宣教師としての偏見や日本の習俗に対する誤解などもあり、慎重に扱う必要があるとの指摘もなされている。いずれにしても、同時代の日本を知るうえで、貴重な史料であるのは間違いない。

■『日本史』に描かれた恐るべき光秀像

 フロイスの『日本史』ほど、当時の戦国大名たちの性格や人物像を詳しく評価した本はない。同時代の史料としては、ほとんど唯一といってもいいだろう。フロイスは『日本史』のなかで、光秀の本性について次のように語っている。

 自ら(光秀)が(信長から受けている)寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

 もう解説は不要だろう。築城技術に優れていたというのは、同じ『日本史』に「明智は坂本(滋賀県大津市)と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と書かれている。今の坂本城は当時の面影をとどめてないが、驚くほど豪勢な城だったようである。

 先に示した『日本史』には、続けて次の記述がある。いずれも、光秀の抜け目ない性格を指摘したものである。

 彼(光秀)は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼(信長)を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼(信長)の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自ら(光秀)は(そうでないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

 また、友人たちの間にあっては、彼(光秀)は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼(光秀)を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、(信長が)すでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入――それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した――とともに彼(光秀)に与えるに至った。

 これまで光秀は教養があり、優れた頭脳の持主でもあり、何となくすんなりと信長のもとで出世したイメージがある。しかし、実際には譜代の家臣でなく、出自も貧しかった光秀は、相当な苦労をしたうえで、下から這い上がってきたと考えるほうが良さそうである。

 這い上がるには、ある程度の強かさや狡猾さも必要である。まさしく光秀は、「計略と策謀の達人」ということになろう。このフロイスの光秀評によって、これまでの印象は見事なまでに覆されてしまう。むしろ、武闘派とでも称すべきほどの力強い人物であったといえる。

■恐ろしい人物だった可能性も

 たしかに光秀は、石破氏の述べるように歴史を変えた人物だ。しかし、その人物像には謎が多く、未だに確定し難い面がある。もし、光秀がフロイスの述べるような性格ならば、相当狡猾な人物だったといえる。とはいえ、もし石破氏が自民党の総裁になったら、ぜひ撫民仁政をお願いしたいところである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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