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【「麒麟がくる」コラム】オバマ前米大統領もビックリ!明智光秀は若狭小浜で生まれたのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は鍛冶職人の子というが、作刀経験があったのだろうか?(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■謎多き明智光秀の誕生年

 大河ドラマ「麒麟がくる」が再開され、視聴率も好調とのこと。以前、筆者は明智光秀が土岐明智氏の出自であることを示すたしかな史料がないと述べた。こちら。実は、光秀の出生にまつわる説は、ほかにもある。今回は、光秀が若狭小浜(福井県小浜市)の出身だったという説を考えてみよう。

■『若州観跡録』に書かれた光秀の出自

 光秀が若狭の出身であると書いているのは、『若州観跡録(じゃくしゅうかんせきろく)』という史料である。史料の成立年などは不明であるが、江戸時代中期以降に書かれたと推測される。後世に成った編纂物である。以下、光秀の記事を見ることにしよう。

 冒頭には、はっきりと光秀が若狭小浜の鍛冶・冬廣の次男であると書かれている。しかし、光秀は幼少の頃から鍛冶の仕事を嫌い、兵法を好んでいた。そこで、光秀は家を飛び出して、近江の佐々木氏に仕え、明智十兵衛と名乗ったのである。

 あるとき、光秀は佐々木氏の使者となり、尾張の織田信長のもとに向かった。信長は光秀の立ち振る舞いが素晴らしく、弁舌がさわやかなことに感心した。そして、信長は佐々木氏に対して、光秀を家臣として迎えるべく、譲ってほしいと頼み込んだのである。

 佐々木氏は信長の申し出を快諾し、光秀は晴れて信長の家臣となった。やがて、光秀は信長から大禄を与えられ、明智日向守と名乗ったが、人々は光秀の素性を知らなかったという。

■よく知られた説との比較

 一般的に知られている光秀の出自と経歴は、土岐明智氏の出身であり、のちに美濃斎藤氏、越前朝倉氏、将軍・足利義昭に仕え、最後は織田信長に仕えたというものである。

 『若州観跡録』のポイントは、光秀が鍛冶職人の子だったこと、近江佐々木氏に仕えたということになろう。しかし、光秀が鍛冶職人の子だったことを示す史料は、ほかに皆無である。もちろん、近江佐々木氏に仕えたという史料もない。この時点ですでに疑わしい。

 また、いつ頃のことかもはっきり書かれていないので、さらに疑問が募る。近江佐々木氏とは、近江を領した六角氏のことと考えられるが、そもそも信長との関係は良くなかった。永禄11年(1568)に信長が将軍・足利義昭を擁して上洛した際、六角氏と交戦。撃破している。

 つまり、『若州観跡録』に書かれているように、近江佐々木氏が信長と親しく書状をやり取りし、ましてや家臣の光秀を譲り渡すなどは考えにくい。非現実的なのだ。

■やはり成り立ちがたい光秀の若狭小浜出自説

 『若州観跡録』には、続きがある。光秀が丹波亀山(京都府亀山市)を領した際、冬廣を招いて刀を作らせ、家臣に与えた。丹波に冬廣の刀がたくさん残っているのは、その名残だという。それから冬廣は光秀の助力によって、若狭大掾藤原冬廣と名乗ったというのだ。

 実は、冬廣は若狭を拠点とした実在の刀工集団で、室町時代から江戸時代にかけて活躍した。製作した刀も残っている。しかし、冬廣が実在したとはいえ、光秀がその子であったかは、ほかに裏付け史料がなく疑問が残る。

 なぜ、このような説が流布したのか不明であるが、若狭小浜の刀工集団・冬廣の存在を際立たせるため、光秀を利用した可能性は否定できないだろう。まだまだ疑問は尽きないが、光秀の若狭小浜出自説が成り立ち難いのはたしかといえよう。

 オバマ前米大統領がこの話を聞いたら、ビックリするだろうか!?

【主要参考文献】

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

以上

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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