フーテン老人世直し録(248)

長月某日

フーテンが政治家加藤紘一を取材した最初は36年前の1980年である。大平内閣の官房副長官だった加藤氏を政治部記者としてではなく春闘を担当する社会部記者として取材した。

春闘は総資本対総労働の闘いと思われているが、全体像を指揮統括するのは官邸にいる官房副長官である。ストライキを打たせるかストなしで終わらせるかはすぐれて政治的であり、そのさじ加減は官邸に委ねられる。当時フーテンは昼間は労働組合を、夜には経営者宅を回り、さらに深夜になると議員宿舎に加藤官房副長官を訪ねて話を聞いた。

その年の春闘はそれまでの労働運動の常識を覆した。それまで労働側は国鉄と私鉄の労組が共闘し、全国的な交通ゼネストを構えて賃上げを迫る戦術だった。ところがこの年は私鉄が始発だけでストライキをやめ、国鉄は午後までストライキを打つことになる。それが後に「総評」の解体と「連合」の結成につながるのである。

ある晩加藤官房副長官が「国鉄と私鉄が異なる対応をしたら何が起こるかな?」とフーテンに聞いてきた。それがヒントとなり、新聞とテレビ各社が「交通ゼネスト必至」と報道する中で、TBSだけは「スト中止の可能性」を報道し続けた。そして当日の早朝に私鉄はスト中止を決め、「スト突入」の見出しを一面トップに掲げた新聞は恥をかいた。

当選2回で官房副長官に就任した加藤氏が大平派(宏池会)の輝けるホープであることは誰の目にも明らかで、当時から将来は総理になる人だと思っていた。その加藤氏はフーテンがアメリカの政治専門局C-SPANと提携し、日本に「国会TV」を作ろうとすることに強い関心を示した。

1990年にワシントンからC-SPAN社長などを招いて開いたシンポジウムを、後藤田正晴氏とともに最前列で聞いてもらい賛意を表して頂いたが、しかし「国会TV」を立ち上げるには「電波利権」を巡る複雑かつ壮絶な既得権益との闘いがあり、スタートまでには8年の月日を要した。

その間に宮沢政権が誕生し加藤氏は官房長官となる。すると92年の通常国会で宮沢総理がマネーゲームに踊るアメリカ経済を批判したことが「アメリカ人は怠け者と発言した」と報道され、アメリカ議会を激怒させる事件が起こる。