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米側またも訪台。「台湾有事」危機の高まりで振り返る78年前——終戦記念日に考えてほしい台湾統治のこと

田中美帆台湾ルポライター
(現在の台湾総統府。筆者撮影)

「日本有事は台湾有事」だった

 今月2日、世界中から注目を浴びる中、ペロシ米下院議長による台湾訪問が敢行された。それを受けて中国側は台湾周辺で4日から軍事演習を開始。演習は7日までの予定だったが、翌週10日まで継続された。さらに14日夜には、アメリカの議員代表団が台湾を電撃訪問し、15日に蔡英文総統と会談予定であることが伝えられた。米側が次の一手を打ち、またも中国側を刺激した格好だ。

 故安倍晋三元首相が2021年12月の講演で「台湾有事は日本有事」と発言して8カ月の間に、台湾情勢への関心が集まり、まことしやかに「有事」の可能性が噂されている。

 だが、ここで振り返っておきたい。かつて「日本有事は台湾有事」だったことを。

始まりは1944年10月。

 今年2月、台湾の誠品書店で新刊の出版イベントが行われた。50人ほどが参加して耳を傾けた新刊の題名は『永遠的臺灣島』という。同書は1990年に日本で刊行された書籍『台湾島は永遠に在る』の台湾版である。著者の竹内昭太郎さんは1921年に台北に生まれ、戦時下を学徒兵として過ごした1人。残念なことに刊行前に他界された。この日は竹内氏に代わって、出版に尽力した台湾師範大学退職教授の蔡錦堂氏が登壇した。

 蔡氏は、同書が台湾で刊行される意義を「戦時下を大勢で振り返った文集はあるが、個人がこの時期をまとめ、中国語訳で刊行された書籍はない」と述べた。著者の竹内氏は、戦時下の台北で暮らす自身の身の回りで起きたことどもを、「ノンフィクション」あるいは「ルポルタージュ」と記している。そして戦争の始まりを、こう記す。

 大日本帝国南進の基地・台湾島の首都台北に戦争が到来したのは、昭和19(1944)年の10月12日である。(『台湾島は永遠に在る』)

 連日、米軍機による爆撃が続く様子は、こうある。

 毎晩台北上空に、1時間おきに米B24爆撃機が1機ずつ飛来する。タコツボに入るよりも地上で敵機の動きを眺めている方が安心感がある。夜空にくっきりと、探照灯の交差点に米機の姿が捉えられて、見とれていると機の下腹がパッと開いて、黒い粒が多数こぼれ出る。機はこちらへ向いて角度60度、これは最もあぶない、とタコツボに入る。ザーザー、ガシャガシャと音がして、やがてズシンズシンと地がゆれる。これは1キロくらい先だと、距離まで判るようになる。(『台湾島は永遠に在る』)

 地下にいながら揺れを感じるほどの爆撃が続いていたことが読み取れる。実際、翌1945年も空襲は続いた。とりわけ5月31日はのちに「台北大空襲」と呼ばれる大きなもので、台湾総督府も爆撃を受けた。

 20年5月31日(木曜日)の台北大空襲は凄惨を極めた。午前11時頃から午後2時頃まで数回B25の編隊波状攻撃を受け、軍司令部、台湾総督府庁舎、総務長官官邸及び当行(台湾銀行)本店は全壊または全焼した。当行には500キロ爆弾7個が投下され、銀行の周辺及び構内に直径2、3間、深さ同様の大穴が幾つもでき、その傍にはそのために吹上げられた土砂の小山ができた。その一弾は堅固なる鉄筋コンクリートの陵屋根を貫き、3階の食堂床上にて爆発し、非常の高熱を発し、木造の椅子、テーブルに引火し、火は冷房装置の巨大なる送風管を通って全館に拡がった。(『台湾銀行史』「台北本店の被爆」)

爆撃を受けた直後の台湾総督府。出典:台湾総統府公式サイト
爆撃を受けた直後の台湾総督府。出典:台湾総統府公式サイト

 別の資料にも、この日の様子が次のように記されている。

 敵機が来襲したのは正午近くであったろうか。曇っていたが、雲は高く、その雲の切れ目に今までみたこともない飛行機の大群が重く響く爆音を天空に反射させながらゆうゆうと迫ってくるのがみえた。けたたましい空襲警報のサイレン。連絡員の警報の連呼。私たちは各建物の一階の常駐室か、防空壕に避難した。私は好奇心が強いためか、あるいは初めての経験であったこともあって、そして野次馬的心理も多少あって外に出ていた。もっとも私と同じような連中がかなりいたものだ。(佳山良正著『台北帝大生 戦中の日々』)

 今、私たちが見る台湾総統府は、「台湾有事」後に修復された姿である。

嘉義で遭遇した空襲

 台北だけではない。嘉義市で空襲に遭い「機銃掃射で打ってくる人の顔が見えた」と生々しい様子を語ってくれたのは、1931年生まれの鄭世松さんだ。

 台湾中部の嘉義市に生まれた鄭さんは、旧制中学3年生で終戦を迎えた。空襲の始まった1944年、すでに授業らしい授業は行われておらず、連日、勤労奉仕に駆り出された。終戦の報も、勤労奉仕の最中に聞いた。

 「嘉義の飛行場は、戦後、アメリカの偵察機の基地として利用された場所です。終戦間際にはあまり飛行機は残っていませんでしたが、中学の生徒が駆り出されて嘉義の飛行場のいろんな労務をやらされていました」

 現在は「水上」と呼ばれる飛行場が完成したのは1938(昭和13)年のこと。戦局が厳しくなるにつれ、鄭さんの通っていた嘉義中学からは生徒たちがトラックで40分ほどかけて飛行場に通った。

 「軍の飛行場の基地でしたから、周囲には高射砲(航空機を攻撃する対空砲)があってあんまり近寄れなかったんです。それに、飛行機は地下にありました。地下1階はトラックなどで、飛行機があったのは地下2階。だから、爆撃されても飛行機は大丈夫でした。僕たちは、飛行機が壊れないように地下を掘り進めたんですよ」

 飛行場の他にも、鄭さんたちが駆り出された場所がある。阿里山だ。

 「阿里山には軍事基地を作っていたんです。というのも、阿里山は台湾に上陸された時に最後まで戦う場所として想定されていました。それで、阿里山鉄道で月に一度、数日かけて交代で通っていました」

 嘉義には、嘉義中学校の他にも複数の学校があった。学徒動員の号令のもと、生徒たちは陸軍の指揮によって労役に携わった。その上空を、敵機が襲ってきた。

 「戦争の末期になると、日本の情報のキャッチが遅れていて、空襲警報が鳴る前に飛行機が来ていた。そうすると間に合わないから、空襲にやられた時なんか機銃掃射する姿が、見えるんですよ。掃射してる人の顔が見えたわけ」

 飛行場は高射砲が守ったとはいえ、「街でいい建物があった通り」だった栄町は、大きな被害を被った。「嘉義の栄町は東京で言えば銀座でした。商売で格式のある店は全部、栄町にありました。そこがすべてやられたんです」と鄭さんは言う。

 今では水上飛行場と呼ばれる空港は、戦後、アメリカの前線基地として活用された。

台湾全土の空襲の様子

 台湾への攻撃が始まる2日前、沖縄から鹿児島にかけても攻撃を受けた。台湾への空襲は、1944年10月12〜14日の3日間で九州の4倍になった。

 敵は相当優勢なる海上機動部隊の艦戦機を持って太平洋方面より進入。また一部は支那大陸方面より在支空軍をもってこれに協力せるもののごとく、その規模は従来に比し、著しく大なるものにして10日における沖縄県下並びに鹿児島県下島嶼に対する空襲はのべ機数約830機、台湾に対してはのべ機数において12日約1300機、13日約1400機、14日約550機をもって主として軍事、港湾施設その他主要施設に対し、反復空襲を加えたり。

 投下弾は、主として中型小型爆弾のほか、焼夷弾を混用し、さらに一部に対しては機銃掃射をも加えたるが、この他数種の宣伝ビラを散布せり。(『空襲被害総合情報』)

 その後も含めるとおよそ1週間、繰り返し空襲が行われたと記録にある。翌年早々、1月3日から攻撃が始められていた。

「本20年に入りては1月3日より8月10日に至る間、機動部隊比島基地より連続重要都市部落に侵入し、主として飛行場、軍事施設、船舶、港湾、その他重要施設に対し、爆弾、焼夷弾による攻撃を加え、全島11市制施行地中、都市の機能を喪失せるは基隆、新竹、嘉義、台南、高雄の5市、同半減せるは台北、彰化、屏東、宜蘭、花蓮港の5市にしてわずかに保持し得たるは台中市のみ」(『臺灣空襲概況』台湾総督府警務局)

 終戦のその年、台湾全体で受けた建物被害数は、突出しているのが高雄州と、嘉義市も含まれる台南州である。

    全壊  半壊  全焼  半焼 計

台北州 2,380 4,231 881 39 7,531

台南州 2,047 3,377 9,252 400 15,076

高雄州 3,228 5,254 3,646 347 12,475

(『臺灣空襲概況』臺灣総督府警務局)

 さらに、軍関係を除き、死者5,582人、行方不明419人、重傷3,667人、軽傷5,093人で、計14,761人。全土の罹災者27万7,383人を数えた。

 「重要施設」の項には、「高雄港は岸壁および付属倉庫全滅。基隆港は同半壊し、重要工場事業場にして機能の喪失半減せるもの74か所に達せり」とある。こうして、都市機能を失った台湾が残された。

米軍の上陸候補だった台湾。

 第二次大戦では沖縄が激戦地と化し、甚大な犠牲を払ったことはよく知られている。しかしこの頃、米軍の上陸先としてもうひとつ候補になっていたのは、台湾だった。先述の鄭さんは言う。

 「あの頃、アメリカは台湾に上陸して、台湾を制圧してから日本へ向かうつもりだった。ところが、アメリカのニミッツという海軍大将が、台湾は大きすぎて制圧するのに相当時間がかかる。沖縄を取ってしまえば日本は手を上げるだろう、そのほうが早いと。それで台湾をスキップして沖縄へ行ったんです。台湾に上陸したら恐らく僕は生きてない。僕たちの世代は、ほとんど戦争に駆られて死んじゃったでしょう。運命の分かれ目ですよね」

 かつて日本は、50年もの長きに渡って台湾を統治した。それがために、日本有事は「台湾有事」となり、多大なる犠牲を払わせた。改めて強調するが、あの頃の日本に起因する犠牲である。その後、国の境界は書き換えられたが、世界地図上の地理的な位置関係は当時のままだ。

 終戦から77年。戦後台湾が中国と対峙を続けてきた一方で、戦後日本は一貫して戦争放棄を叫んできた。今、両者が求めるのは、有事でも戦争でもない。繰り返してはならない。改めて必要なのは、有事も戦争も回避する外交力と智慧、そして絶対に戦争をしない、という1人1人の強い意思だ。今、そのすべてが平和を構築する礎となる。

台湾ルポライター

1973年愛媛県生まれ。大学卒業後、出版社で編集者として勤務。2013年に退職して台湾に語学留学へ。1年で帰国する予定が、翌年うっかり台湾人と国際結婚。上阪徹のブックライター塾3期修了。2017年からYahoo!ニュースエキスパートオーサー。雑誌『& Premium』でコラム「台湾ブックナビ」を連載。2021年台湾師範大学台湾史研究所(修士課程)修了。

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