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李登輝さん逝去から2年、台湾金融界の重鎮が「民主の父」の偉業を振り返る

田中美帆台湾ルポライター
(写真:REX/アフロ)

「李登輝さんって、すごい人ですよ」

 そう言って、2020年7月30日に亡くなった李登輝氏を評価するのは今年91歳の鄭世松さんだ。鄭さんは1931年、日本統治期に台湾南部の嘉義生まれ。1949年から38年に及んだ戒厳令下に、台湾大学を卒業。台湾銀行に入行し、台湾の高度経済成長期の金融政策をバンカーとして支えた。中国国際商業銀行頭取を引退した後は、台湾と日本の経済交流を推し進め、2013年にはその功績によって旭日中綬章を受賞した。

 李氏は1923年生まれだから、鄭さんの8つ上。李氏と鄭さんはほぼ同時代を生き、鄭さんは台湾の金融界という政界ともそう遠くないところから李氏の奮闘を見つめていた。

 しかし、一体、何がどうすごかったのか。鄭さんはこう話す。

 「台湾で完全に安心して喋れるようになったのは、李登輝さんが総統になってからじゃないですか。その前は、みんな(発言に)用心していましたから」

 どういうことなのか。台湾の歴史や社会をひも解きつつ、筆者なりの整理を試みる。

「用心」が必要だった40年

 1988年、蒋経国総統の急死によって、副総統だった李登輝は総統に就任した。日本で圧倒的な知名度を持つ李登輝だが、その功績は、当時の台湾情勢をよく知らない身にとってはなかなか理解が難しい。

 まず鄭さんの言う「用心」とは、簡単にいえば反体制的な言動とみなされないかについての注意を指す。戦後の台湾では、蒋介石、政治といった体制批判はもとより、新党結成さえ許されなかった。「党外」といわれた国民党以外の言論や活動はことごとく封じられ、自由にものが言えない時代が長く続いた。

 「結局、国民党の悪口ばかり言う人は、工作員に目を付けられたんでしょうね。僕と一緒に台湾大学に入ったのに、いつの間にかいなくなったのが4~5人いました」

 昨日までいた人がいなくなる——台湾では珍しいことではなかった。鄭さんが台湾大学へ入学したのは1949年。50年代の社会状況についてこんな記述がある。

 1950年代の「白色テロ」はむやみな逮捕、むやみな処刑と無数の冤罪事件から成り立っている。これらの白色テロのもとでは通常「共産党のスパイを消滅させる」ことを口実に、法律による明確な授権もない非公開の司法の尋問のもと、拷問で無実の罪を認めさせられた者が極めて多かった。裁判の粗雑さと刑の執行の厳しさは信じがたいものがあった。理由もない失踪や冤罪事件が頻繁に起こるため、多くの民衆は「夜も安眠できない」状態だった。社会の各界には秘密の監視組織が張り巡らされ、友人、学友の間ですら「密告」が横行し、それによって職業を失うばかりか政治犯になることすらあった。(呉密察監修『台湾史小事典』)

 1949年、中国の国共内戦から撤退する形で、蒋介石率いる国民党軍が台湾海峡を越えて台湾に渡った。資料によれば、1950年代初頭に軍人や一般人含めて遷台した人数は約120万人とされる。「外省人」と呼ばれた移民は、およそ半数が軍人で、農工商に携わる者もいたが、公務員とその家族が多かった。1946年時点で台湾の公務員における外省人の比率は12.3%だったのが、1951年には39.1%に増加した。急激な人口増加で、一気にインフレが起き、社会情勢は悪化。日本統治時代として台湾は1936年に最高のGDP額を達成していたから、社会全体が大きく波打った時代であった。

 日本統治時代の台湾では、社会的エリート層に日本人がいた。日本人か台湾人かで社会的な差別はあり、進学や就職にも制限があった。終戦によって約40万人の日本人が台湾から引き揚げ、差別構造が解消されるかと思いきや、その構造は外省人に引き継がれた格好だ。乱暴な言い方をすれば、日本人の抜けた穴に外省人が押し寄せた。

 こうした状況で自衛するには、密告されて政治犯にされないよう、「用心」するほかなかったのである。鄭さんによれば、用心は、日本時代のエリート層だった李登輝が総統になり、90年に再選され、さらに96年の直接選挙で総統になるまで続いた。この間、約40年がかかっている。戦後50年近く経って、総統になった頃の政界の状況について、李登輝自身の証言がある。

 対する李はしかし、「突然、総統になったが、権力も派閥も何もない、カランカランの状態だった」と当時を振り返った。台湾出身である本省人の李の最大の弱点は、蒋経国という後ろ盾を失った時点で、中国大陸出身の外省人が中枢にいた国民党の内部に、なんら権力基盤をもっていなかったことだ。(河崎真澄著『李登輝秘録』)

 李登輝は外省人ではない。台湾生まれで本省人と呼ばれる。蒋経国に見出され、彼の急死によって副総統にあった李登輝が総統の座を引き継いだ。後継の座を虎視眈々と周囲が狙う四面楚歌。誰ひとり味方のいない中で、ひとつ間違えば失脚が待っている。

 蒋経国逝去の前年、1987年7月15日に戒厳令が解除されていたとはいえ、それで一気に民主的な社会に様変わりしたわけではない。民主化は、少しずつ、一歩ずつ、切り拓かれていった。

党の軍隊から国家の軍隊への移行

 では、鄭さんは総統時代の李登輝の功績はどんなことだと捉えているのか。「国民党の軍隊から、中華民国の軍隊に切り替えた」ことだと言う。

 「軍隊というのは本来、国家のものであるはずなのに、台湾では国民党が支配していました。李登輝さん以前の軍は国民党の軍だったんです。それを、李登輝さんは調査機関や軍隊を全部、国の機関にした。それと、参謀総長だった郝柏村をまず国防部長にして、それから行政院院長にした。軍は全部、郝柏村が抑えていたのを、まず彼から軍の統帥権を取り上げて、次に行政長官にした。2段階に分けて全部取り上げたんです。だから、李登輝さんはすごいんですよ」

 当時の軍の位置付けについて、次のような記述がある。

 1988年以前、戒厳令下の党国一体体制では中華民国国軍は事実上国民党の軍隊であった。国防部(防衛省)の下に政治部と呼ばれる政治工作を専門とする情報局(通称は軍統)があり、加えて法務部の下に調査局(かつては国民党の下部組織で通称は中統)があり、この3つの系統による複雑な情報機関と治安警察とを合わせて、特務機関として「内部の敵」に対して治安維持の機能を発揮していた。特に初期には、特務警察が「99人の冤罪者を出しても、共産党のスパイを1人たりとも逃すな」とのスローガンの下に、密告や自白の強制を奨励し、多くの「政治犯」を作り出した。(『台湾を知るための60章』「第55章安全保障」明石書店)

 ここで改めて押さえておきたいのは「民主化」とはどういうことなのか、である。辞書には、次のように定義されている(リンク)。

 考え方や体制などを、民意が反映するように変えること。より民主的なものに変えていくこと。また、考え方や体制などがそのように変わっていくこと。

 日本は台湾と違って民主主義がある種、“自動的に”付与された。一方の台湾はそれまで民意の反映されない社会だった。歴史的経緯や李登輝本人の言から、蒋介石以下、外省人が社会の中枢で実権を握り、政権運営は彼らが行っていたことが伝わる。李登輝は、中枢にたどり着いたとはいえ、その座をどうすれば維持できるか、必死だったはずだ。著作には、長老のもとに通い詰め、地固めしていた様子が描かれている。

国防予算と権力の移行

 そして、軍である。今でこそ、国家予算全体の20%以下という台湾の国防費だが、過去の数字を見ると大きく変化してきた(数字は中華民国「國防報告書」各年度より)。

台湾の国防予算比率の推移(%)

1983年度 57.15 ←戒厳令解除前

1987年度 50.80 ←戒厳令解除

1989年度 47.42 ←蒋経国逝去の翌年

1992年度 27.74(2,712億元) 

1996年度 22.76(2,583億元)←直接選挙で李登輝総統誕生

2001年度 16.48(2,697億元)

2006年度 16.06(2,525億元)

2017年度 16.18(3,193億元)←蔡英文総統の2年目

2021年度 16.94(3,618億元)

 李登輝が総統に就任した当時、国家予算の半分が国防予算だった。国防予算の変遷をまとめたある論文によれば、1970年代から1980年代半ばまでの台湾は、断交など国際的に不利な立場にあり、国防費を上昇させていたと分析している。

 そしてこの頃、参謀総長の立場にあったのが、郝柏村(1919-2020)であった。この人物は中国・江蘇省生まれで、1937年に入隊。蒋介石と共に1949年、台湾に渡り、一貫して軍人としての道を歩んできた。そして蒋経国本人から軍権を渡されたのが張本人である。李登輝が恐れないはずはない。後年、李登輝本人が次のように語っている。

 1988年1月13日、蒋経国が亡くなった後、私は即座に総統になると宣言した。だが、考えてみてくださいよ。その時、周囲には誰もおらず、たったひとり秘書がいるだけ。軍隊もない。私の命令なんて軍隊がきくかどうかもわからない(YouTube「台灣啟示錄 首位台灣人總統 民主先生李登輝」)。

 1990年に兵役で海軍に従軍していた筆者の台湾人夫には、強烈な記憶があった。「フィジー沖にいたのに、上官から『台湾で政変が起きたら、郝柏村のために即帰台する』と言われていた。フィジーから台湾まで船だから1ヶ月以上かかる。万一、政変が起きてたって収束してたと思うけれどね。軍の上官は外省人ばかりで、反対する人なんていなかった」。李登輝の恐れが的中していた表れだろう。

 李登輝と郝柏村——総統と参謀総長。乱暴なたとえだが、三国志における呉の孫権と周瑜の関係に似ている。呉を治めていた兄の孫策の急逝によって、孫権がその座に就く。だが、兵の実権を握るのは軍師の周瑜で、急ごしらえの孫権には長老や兵を動かす力などない。周瑜はクーデターこそ起こさなかったが、実質的な権力は彼の手中にあった。後世の物語でも、呉の記述について孫権より周瑜にスポットがあたるのは、実質的なトップだったことによる。

 1990年1月29日、台湾である法律が定められた。全7章35条からなる「國防法」である。これによって、台湾の国防体制は総統、国家安全会議、行政院、国防部が担い、陸海空軍を総統が率いることが明記された。こうして台湾民主化に向けて、シビリアン・コントロール(文民統制)が法制化された。

 1996年の就任演説で私が「台湾」を強調してはじめて、台湾は真に国民が主権をもつ国家として自己主張が可能になった。(李登輝『台湾の主張[新版]』より)

 李登輝氏逝去から2年。改めて台湾民主化の父の偉業に感謝したい。

台湾ルポライター

1973年愛媛県生まれ。大学卒業後、出版社で編集者として勤務。2013年に退職して台湾に語学留学へ。1年で帰国する予定が、翌年うっかり台湾人と国際結婚。上阪徹のブックライター塾3期修了。2017年からYahoo!ニュースエキスパートオーサー。雑誌『& Premium』でコラム「台湾ブックナビ」を連載。2021年台湾師範大学台湾史研究所(修士課程)修了。

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