終戦記念日に考えてほしい「台湾統治」の歴史的事実 「祖国」日本に向かった48万人の苦悩
記録に見る48万人の移動
1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送は、台湾にもラジオを通じて伝えられた。当時、台湾の人口は約658万人。終戦によって人々は日本へ引き揚げると、1946年の台湾の人口は約610万人となった。約48万の人々はどのようにして日本へ向かったのだろう。
MRT永安市場駅から徒歩2分ほど歩くと、国立台湾図書館がある。ここは、日本統治時代に設立された台湾総督府図書館を前身とした図書館だ。そのため当時の資料が多く残されており、貴重な資料が閲覧できる。
台湾図書館に所蔵されている台湾の引き揚げに関する資料は多くない。引き揚げ計画から実行に至るまでの公文書をまとめた『台湾 引揚・留用記録』(河原功監修、ゆまに書房、1997年)、引き揚げの方たちが発行した通信などその後の足跡がわかる『台湾引揚者関係資料集』(不二出版、2011年)を参照しながら、当時の状況整理を試みる。
台湾からの人々の輸送が始まったのは、1946年2月下旬になってからだ。前年8月15日の玉音放送から半年が経っていた。この間の状況について、次のような一文がある。
飛行機が旅客を乗せて日本と台湾の往来を始めたのは1959年とずっと後のことだ。それ以前の台湾と日本の行き来は、船が担っていた。
引き揚げの起点となったのは台湾各地の港だ。当初計画では基隆と花蓮の2港が予定され、高雄港は不確実と見られていた。船も当初は台南号という貨物船を利用することになっていたが、そもそも人ではなく貨物を運ぶ目的の船で、乗せられる人数も348人と少なかった。改装を申請した図面には、船底部分に「砂糖」と記されている。
後になって、アメリカから大型の輸送船が貸与されることになり、一気に輸送人数を拡大することができたという。
記録によると、輸送が始まったのは高雄の1946年2月21日が最初だったと見られる。この時には軍人軍属家族の4人が高雄を発した。最大の輸送基地となった基隆では3月2日の軍人軍属家族138人、花蓮は4月1日の遺族留守家族343人が最初となった。
第1期は、基隆からは20万23人、高雄からは6万4,702人、花蓮からは1万9,380人が日本へと向かった。その後、1949年8月まで6期に渡って輸送が行われた。
そうして台湾を出発した船は、数日かけて長崎県佐世保港、広島県大竹港、和歌山県田辺港などへと到着した。ただし、中には船内で疫病罹患者が発生し、海上で何日も停泊を余儀なくされたものもあったようだ。上陸後は、列車へと乗り継ぎ、各自の目的地へと向かった。
移動にまつわる諸問題
この大勢の輸送には、多くの難問があった。何しろ普通の旅行などとはわけが違う。それまで住み慣れた土地をいきなり強制撤去させられるのと大して変わらぬ。にもかかわらず、所持金は1人上限1,000円と定められた。当時の物価について、以下のような記載がある。なお10匁は37.5グラム、1斤は600グラムである。
戦後直後の混乱期と現在の物価の比較は諸説あるようなので控えるが、ともかく考えてみてほしい。今、いきなり別の国に決められた所持金で移動しなければならない、という状況を。現実問題として、築き上げてきた生活の基盤も財産もそっくり失われ、住む場所も縁故もなければ、仕事のあてもない。誰もが「どうやって生きていこう」と途方に暮れたはずだ。
さらに、所持品も携行が許されたのは、身の回りのわずかなもののみだったという。
アンケートに見る心の揺れと苦難
ほんの一端に過ぎないが、引き揚げの概要がつかめたところで、実際に引き揚げた人たちの声を紹介したい。
『大空襲から引揚げへの苦難の道のり』(樺山小学校三三期同期会編、2005)という冊子には、57人の引き揚げ前後の詳細を尋ねたアンケートが掲載されている。たとえばこんなふう。
1946年になってから日本へ向かうことを決めた人が少なくなかったようだ。上に続く「引揚げに対し、親御さん方はどのように考えられていましたか」との問いに、「生活の基盤は台湾にあり、最後まで引揚げを渋っていた」「敗戦などの政治情勢の成り行きだ、とあきらめていた」という選択肢を選んだ人が多く見られた。
先述した乗船日程などから逆算すると、日本への出発までの時間も、かなり短期間だったことがわかる。
一般に台湾からの引き揚げは、他地域に比べると「はるかに良かった」「最も平静」といわれるようだが、記録を読むとそうは感じられない。たとえば、船内での期間の記憶を尋ねた問いには、以下のような回答があった。
また、日本に到着してからの記憶もある。「祖国日本の第一印象はどのようなものでしたか」という問いに対し、次の記載があった。
体験記に見る接収と交錯する感情
『台湾引揚史-昭和二十年終戦記録-』(台湾協会編集・発行)は、終戦から37年後にまとめられた。430ページに渡り、160人が体験を振り返った記録である。執筆者は当時、学生、社会人、総督府職員、公務員、教師……さらに、戦後アメリカ領になった沖縄へ向かった方など、多種多様な人生が記されていた。
台北郵便局に勤めていた大寺春彦さんの手記「台北郵便局の最後」からは、戦時下の混乱と「接収」の具体を垣間見ることができる。「接収」を辞書で引くと「国などの権力機関が、個人の所有物を強制的に取り上げること」とある(リンク)が、実際はどうも様子が異なるものであったようだ。
「接収」とは現代的にいえば国同士の業務の引き継ぎと理解できる。ようやく、だから日本人の留用が必要だったのだと合点がいった。
もう1篇、宮村堅弥さんの「高砂族の真心」なる手記を紹介したい。
ある晩、男女7、8人の来訪者がやってくる。高砂族、つまり台湾原住民の人々だった。普段から親交を重ねていたという。
今、コロナ禍で移動に強い制限がなされている。この春、台湾から日本へ留学や就職が決まっていた人たちが、急に渡航ができなくなり、人生設計が大きく狂わされた話も耳にした。誰しもが忘れられない日常を過ごしている。75年前、今と反対に移動を余儀なくされた時代が確かにあった。終戦記念日の今日、その歴史とともに、1895年から1945年までの50年間、台湾は日本だった歴史的事実もまた、忘れずにおきたい。