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シーナ&ロケッツ40周年 鮎川誠が語るシーナとロック「自分達が音楽やりおるのはシーナのおかげ」

田中久勝音楽&エンタメアナリスト
「ロックは生き様の事っちいうか」

シーナ&ロケッツ40周年、ソニーとビクターから鮎川誠選曲・監修のベスト盤が発売

『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ EARLY ROKKETS 40+1』(2月28日発売)
『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ EARLY ROKKETS 40+1』(2月28日発売)
『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ VICTOR ROKKETS 40+1』(3月28日発売)
『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ VICTOR ROKKETS 40+1』(3月28日発売)

シーナ&ロケッツ(以下シナロケ)がデビュー40周年を迎えた。同バンドは、ギタリスト鮎川誠と、妻でボーカルのシーナにより結成され、1978年にシングル「涙のハイウェイ」でデビュー。その後アルファレコードに移籍し、1979年に発売したシングル「ユー・メイ・ドリーム」のヒットにより、一躍その名前は全国区になった。ボーカルのシーナは残念ながら2015年2月14日にこの世を去ってしまったが、シナロケは精力的に活動を行っている。そんな記念すべき40周年に、素晴らしい作品が届けられた。鮎川が選曲・監修をしたベストコレクション『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ EARLY ROKKETS 40+1』が、2月28日に発売された。タイトル通り、初期アルファ時代の彼らの魅力がタップリ詰まった40+1曲だ。さらに3月28日にはビクター時代から同じく鮎川が選曲・監修した『ゴールデン☆ベスト シーナ&ロケッツ VICTOR ROKKETS 40+1』もリリースされる。

シーナの3回目の命日の前日、鮎川がいつも取材場所として使用している下北沢の老舗喫茶店で、「今も一緒にライヴをやっている」というシーナとの思い出、結成秘話、あの名曲が誕生するまでのいきさつ、そして現在の音楽、音楽シーンに思う事まで、タップリと語ってもらった。

「自分達が音楽やりおるのは、シーナのおかげやからね」

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「自分たちが音楽やりおるのは、シーナのおかげやからね。シーナとこんなに長くやるとは思わなかったんですけどね、最初は。でも聴き直すと本当にもうロックの発想が違う歌手やったなと、客観的に見るとね。一緒に東京で曲を作って、レコードを出し始めて、色んな自分たちの大好きなロックやブルースの要素を入れ込んで、それで普通だと思いよったけど、シーナがいなくなって同じ曲をやったり、色んな方とその曲を演ったりすると、自分で言うのも何だけど、こんなにすごい細かいところまで気遣って、音楽を作ってたんだなと気づきました。だからシナロケにシーナがいないけど、シーナとロケッツっていうバックバンドじゃない、4人で作ったバンドで、ひとりメンバーが病気でこの世を去ったけども、同じバンドをやってるっていう事」。

30歳で上京~デビュー。「俺は年季を武器にやっていこうと思った。20代は音楽とたっぷり向き合ったから、30代で東京に出てきた時は、新しい音を出してる、新しいロックバンド、という気持ちが強かった」

鮎川は1970年から78年まで、福岡・博多を拠点にサンハウスという、ローリング・ストーンズ、ブルースといったルーツ・ロックを色濃く感じさせてくれる人気ロックバンドの、リードギタリストとして活躍していた。その一番のファンであり、応援団だったのがシーナだ。二人は結婚し、サンハウスの大ファンでもあったシーナの父親の後押しもあり、東京で“勝負”することを決意する。1978年3月の事だ。「僕たちは70年代の終わりに、自分たちがやるかやらんか、やれるかやれんかっていう瀬戸際まで来た時、本当に今しかできんことをやろうち思って、お上り気分で東京には来てないんですね。東京にいつ吹き飛ばされるかわからんみたいな俺たち二人に、親父の「精一杯やってこいよ」という言葉に、ものすごい励まされた。俺、その時30になりよったから、そんな時に「やるかやらんかハッキリせえ」って言われた親父の言葉が本当にありがたかったです」。

30歳でのメジャーデビューと聞くと、遅いと感じるかもしれないが、鮎川の場合は満を持して、という言葉がしっくりくる。ルーツ・ミュージックへの豊富な音楽知識とロックへの哲学、そして経験、その濃密なキャリアがこの40年続くバンドの大きな柱になっている。「年季は入ってると思ってた。年季が入っとるよりも、初々しい方がみんな好きっちゅうことはわかるけど、俺は年季を武器にやっていこうと思って。ブルースが大好きで、俺の生きてきた時間のほとんど、手にしたお金のほとんどは音楽につぎ込んで、朝から晩まで音楽好きな仲間と福岡で音楽聴いて、情報交換したり、洋書屋やらに行ってブルースの本を見つけて買ったりして。20代は音楽とたっぷり向き合って来たから、東京に出て来た時に、新しい音を出してる新しいロックバンドやけんお見知り置きを、みたいな気持ちが強かった」。

「私も自分の歌ったレコードを、自分で聴いてみたい」というシーナの言葉から、全てが始まった

鮎川とシーナはいつも一緒にいた。そして家族の事をインタビューなどでも包み隠さず話をしていた。夫婦だから当たり前かもしれないが、当時そんなロックバンド、アーティストは少なかった。そういう意味でもシーナ&ロケッツの登場、醸し出す空気は、日本のロックシーンを変えたといってもいい。「一人で色んなところに行くと、『あれシーナは?』って言われるし、シーナも一人で他の仕事行くと『今日は鮎川さんは?』て。本当にそれはありがたいことだね、いつも一緒ちゅう。でも九州のもんは、女は隅に引っ込んどけみたいな風土があるんですよ、男はえらい、男をたてるのが女の本分だみたいな。それはすごいわかるし、最初は男と女が一緒にどっちも表に出るっていうのは、やっぱり嫌な雰囲気ちゅうのは、俺自身が強く感じてた。だから俺から奥さんに「君歌わないか?」とか「俺と一緒にロックバンドやろうぜ」とは、多分言わなかったと思うんです。当然俺がロックするのは当たり前だし、シーナは俺のロックを好いてくれて俺のファンでいてくれて、一緒にやるなんて夢にも思ってなかったから。ただシーナがある日、「私も自分の歌ったレコードを、自分で聴いてみたい」って言った時に、そのひとことやったですね」。

「下手な4人が集まって、人一倍頑張ればなんとかユニークな音になる。それがバンドの特権」

シーナのこの言葉からシーナ&ロケッツが生まれた。「ずっと俺に優しくしてくれるシーナに、花ひとつ贈ったことない九州男が、レコードくらいなら作れるかもしれんなって思った」。本名の悦子から、シーナに生まれ変わった瞬間だった。そしてシーナ&ロケッツの始まりだった。ちなみにロケッツの表記は、鮎川のこだわりで「ROCKETS」ではなく「ROKKETS」である。「東京のミュージシャンは演奏も上手いんやけど、共有のビジョンを持ってるやつじゃないと。バンドっちゅうのは人一倍みんなが頑張って、やっと下手な4人が集まればなんとかユニークな音になるっちゅう、バンドの特権のようなもんってあるんですよね。だから本当に気心知れた、昔一緒にやってた仲間に手伝ってもらってシーナ&ロケッツは始まった」。奈良 敏博(B)、川嶋 一秀(Dr)を加えた4人で、1978年、エルヴィス・コステロのライヴの前座として登場し、鮮烈なデビューを飾った。

名曲「ユー・メイ・ドリーム」は「コピーでもイミテーションでもない、音楽家が高い見識で、色んな英知を結集させて、お手本がない音楽を作り上げた」

1979年
1979年

シナロケの運命を決定づけた、「ユー・メイ・ドリーム」という今も色褪せない代表曲が生まれたのは、高橋幸宏との出会いがきっかけだった。彼から細野晴臣を紹介され、鮎川がYMOのライヴにゲストギターとして出演。細野から「プロデュースしたいからアルファレコードに来ないか?」と誘われて、同社と契約した。「ユー・メイ・ドリーム」は鮎川と細野の共作だ。「細野さんのような音楽シーンを牽引してる人が、俺達に興味を持ってくれて、なおかつプロデュースしたいって言ってくれたお陰。それで細野さんがアレンジしてくれてできあがってきたのが、あまりにも素晴らしくて。壮大なコンピュータのオーケストラのリズムトラックが、ボーンって入ってて、でもこれは俺たち4人じゃとても再現できる音じゃないからっちゅう事で、細野さんに、「これは自分達の音だけの方がいいことない?」って一応言うたんですよ。細野さんもバンドの事をよくわかってるから。でもレコードは冒険しようみたいな。レコードでしかできない事があってもいいやんって。本当そうだねって、スーと腑に落ちて。ロックってそれぞれの人がロックに対しての美意識やら思い入れがあって、4人でやってきたバンドが、コンピュータが入ったレコードを出すのはけしからんっていうやつもおったり、色々反応はありました。でも俺達は、その時に今まで聴いた事ない音を聴いたと思って。コピーでもイミテーションでもない、音楽家がすごく高い見識で、色んな英知を結集させて、お手本がない音楽を作ってくれたんです」

「最近はロックは能書きじゃねえって思う。ロックは生き様のことっちいうか」

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テクノとロックの出会いは「ロックンロールに魔法の粉をかけてくれたような」新しい音楽になり、若者が飛びついた。その後もシーナ&ロケッツは細野プロデュースで名盤『真空パック』を作り、また糸井重里作詞のシングルをリリースしたり、阿久悠全作詞によるアルバムを作ったり、その時代の空気を臆することなくどんどん取り入れ、自分達だけのロックを進化させていった。「八代亜紀の演歌をテレビで聴いて、グッときてシーナと2人でいいねってなって、この言葉を俺たちの好きなロックのサウンドに乗せたら、もっとすごいぜって。それでダメもとで聞いてみたら、バンドマンが歌いたい言うて、直接希望を伝えたちゅう事を阿久さんがすごく喜んでくれて、やっぱり阿久悠さん達からがロックの世代やからね。エルヴィス・プレスリーやらの音が生まれた頃に、ちょうど阿久さんは学生やったんやね。俺たちはストーンズやらビートルズ世代やけど」。阿久と共に作り上げたアルバムが『ROCK ON BABY』(1994年)だ。「最近はロックは能書きじゃねえって思う。前は能書きが好きだったんです、ロックらしい事とか、ロックはこういう事やっちゃいかんとか。でも何でも生きとる事がロックだみたいな事をこの頃思いよるから、ロックは生き様の事っちいうか」。

鮎川とシーナの半生を描いた福岡発地域ドラマ『You May Dream 〜ユーメイ ドリーム』(3月2日OA)は、「シナロケというバンドへの愛と、ロックンロールに満ちたドラマ」

そんなロックな生き方をしてきた鮎川とシーナの半生を描いた福岡発の地域ドラマ「You May Dream 〜ユーメイ ドリーム」が、3月2日にNHK福岡で放送される。シーナ(悦子)を石橋静河、鮎川誠を福山翔大が演じる、青春ドラマだ。「北九州・若松の若戸大橋や、高塔山、大好きな場所が舞台になってて、それを見ているだけでジーンときました。シナロケというバンドへの愛と、ロックンロールに満ちたドラマになっています。シナロケの事、音楽を思ってくれながら、みんなが演じてくれて、ファンの人はエキストラで協力してくれて、それをすごく喜んでくれて、そういう声を聞くだけで嬉しいし、みんながハッピーになれることだなって思って。それが僕にとっては嬉しい事ですね」。地域ドラマなので九州地区でしか観る事ができないが、是非全国放送して欲しい。

「とにかくロックが好きで、向上心と人間力のあるバンド、ミュージシャンに出て来て欲しい」

40年間ロックを奏で続けてきた鮎川の目に、現在の音楽シーン、アーティストはどう映っているのだろうか。「70年に入った頃からロックが全部変わったんですね、みんながロックを求めとったち、ロックがすごい勇気を与えてくれて。その後も新しいロックが起こったけど、今はそういうのが薄いと思うんです。MTVとネットはたまに見るんですけど、全体的に小粒ちゅうか、はい上手ですねで終わったりとか、人間力ちゅうか、人間まで伝わる前にそこまでいかんような感じ。なんかある意味商業主義の色が強い、でもそれがないと生き延びれんからね、バンドはね。音楽には、生い立ちも、年も、住んでる街も、そういうのは一切何も関係ないと思ってるんで、やっぱり一人のその思いが大事。とにかくロックが好きで、でもそれに見合った技術と戦い方、向上もせな音楽もできんし、聴きたい音、抑える音、出したいトーン、色んなものを模索せんといかん」。

「今は若い時のようにできん事はいっぱいある。でもロックのためにやってみたらやれる事もいっぱいある」

今年5月で70歳を迎える、40年間愚直にロックンロールを追い求めてきたミュージシャンの言葉は胸に響く。「俺たちも次のステージちゅうのがあるから、ものすごい日々それに備えて小さな怪我も注意するし、例えば棘が刺さったり、爪の皮が剥けただけで痛くてギター弾けんから、すごい大切に日々を過ごして、その日がある事を、喜びを持ちながら感謝しながら待ってる。俺達は若い時のようにできん事はいっぱいあるんです。でもロックのためにやってみたらやれる事もいっぱいあるんですよね、70でもね」。

ロック道を次代に伝えるべく、語る。「共有したいし、伝えたい。色々な音楽との出会いは頭だけで考えとる以上のハプニングがあったり、深く胸に刻まれたりする」

Photo/島田香
Photo/島田香

鮎川は自ら運営しているシナロケのオフィシャルサイト「ロケットウェブ」で、サンハウス時代にガリ版刷りでやっていた仲間と共に、地元福岡で不定期に開催している『鮎川ロック塾』という連載を、アーカイブとしても記録しながら、ロック道を次代へと説き、繋いでいる(『鮎川誠ロック塾』は次回は3月25日福岡JUKE JOINTで開催)。「共有したいっていう。伝えたいっちゅうのもあるね。これ知っとる?とかいうのもあるし。今はどんな音楽だって手に入って、聴ける時代だけど、逆に誰かひとりの選者が選んだ作品の方が説得力があったりするんですね。色んな音楽との出会いは色んな要素があるから、頭だけで考えとる以上のハプニングがあったり、深く胸に刻まれたりするから。音楽で集まれることはとても素晴らしいし、そんな仲間と楽しい時間を過ごせることが、この「ロック塾」もそうですけど、シナロケのライヴに来てよって。ロックは生だぜって。やっぱり生はその時だけ、消えますからね。でもライヴは楽しいです」。

4月7日"シーナの日"は、地元・下北沢で恒例の"シーナに捧げるロックンロールの夜"が開催される

亡くなる2か月前までステージに立ち続けたシーナは、生涯ロックシンガーを貫いた。鮎川はそんなシーナと共に今もステージに立ち続け、ロックを鳴らし続けている。今年ももうすぐ4月7日“シーナの日”がやってくる。恒例の“シーナに捧げるロックンロールの夜”が、地元・下北沢GARDENで行われる。スタート時間は18時47(シーナ)分。そして今年は、40周年ベスト盤のリリースにちなんで、40+1曲を披露する予定だ。

『OTONANO』シーナ&ロケッツ特設ページ

音楽&エンタメアナリスト

オリコン入社後、音楽業界誌編集、雑誌『ORICON STYLE』(オリスタ)、WEBサイト『ORICON STYLE』編集長を歴任し、音楽&エンタテインメントシーンの最前線に立つこと20余年。音楽業界、エンタメ業界の豊富な人脈を駆使して情報収集し、アーティスト、タレントの魅力や、シーンのヒット分析記事も多数執筆。現在は音楽&エンタメエディター/ライターとして多方面で執筆中。

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