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初代K-1王者ブランコ・シカティックは、なぜ”凶行”に及んだのか?【『PRIDE.2』の謎】

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
ケアーvs.シカティックは、まさかの結末に。場内は騒然となった(写真:真崎貴夫)

ホイスが欠場、代役にシカティック

もう20年以上も経つのに、ふと思い出す試合がある。

あれは何だったのだろうか、と。

1998年3月15日、横浜アリーナ『PRIDE.2』のメインエベント、マーク・ケアー(米国)vs.ブランコ・シカティック(クロアチア)も、そんな一戦だ。

『PRIDE.2』は本来、1月18日に同所で行われる予定だった。

メインカードは、ホイス・グレイシー(ブラジル)vs.マーク・ケアー。ところが、試合の約1か月前になってホイスが体調不良に。手足に痺れを感じ闘える状態ではなくなってしまった。そのため大会は延期、メインカードもケアーvs.シカティックに変更されたのだ。

これには少し驚いた。

キックボクサーであるシカティックがMMA(総合格闘技)の試合をすることに対してである。彼は『PRIDE.1(1997年10月11日、東京ドーム)』にも参戦しラルフ・ホワイト(米国)と闘っているが、これはスタンディング・バウト(キックボクシングルール)であり、それまでにMMAルールに身を浸したことは一度もなかった。

この頃、『PRIDE』を運営していたKRSはマーク・ケアーに大きな期待を抱いていた。レスリング全米王者に輝いた後、MMAに転向したケアーは『UFC14』『UFC15』のヘビー級トーナメントで連続優勝。その実績を引っ提げ『PRIDE』に参戦したのだ。

ケアーがパワーで圧勝すると、ほとんどのファンは思っていた。寝技ができないシカティックをタックルで倒しパウンドで勝利するだろうと。

1993年4月に開かれた『第1回K-1グランプリ』のトーナメントで優勝し名を馳せたとはいえ、シカティックはこの時すでに43歳。新たなスター、29歳のケアーの踏み台にされると見られていたのだ。

しかし…そうはならなかった。

敢然と「敗北拒否」

試合開始直後、両者は距離を取り睨み合う。場内に緊迫した空気が漂った。

この状態が約1分間続いた後、先に動いたのはケアーだった。両足タックルを仕掛け、シカティックのカラダを持ち上げる。ここまでは予想通りの展開。だが、シカティックは押し込まれながらも簡単には倒されなかった。後方に動き左腕でトップロープを抱え込む。そしてケアーの頭部に右拳を叩き込んでいったのだ。

レフェリーが割って入るも、シカティックは攻撃をやめない。

オフィシャルスタッフもリングに入り、両者を引き離した後、シカティックに「注意1」が与えられた。

ロープを掴んだり抱えるのは、反則である。

タックルを仕掛けられたシカティックは左腕でロープを抱え、右手でケアーの頭部を攻撃。これは明らかな反則で、直後にレフェリーが二人を分けようとするもシカティックは攻撃をやめなかった(写真:真崎貴夫)
タックルを仕掛けられたシカティックは左腕でロープを抱え、右手でケアーの頭部を攻撃。これは明らかな反則で、直後にレフェリーが二人を分けようとするもシカティックは攻撃をやめなかった(写真:真崎貴夫)

試合再開。

すぐさまケアーは右足にタックルを仕掛ける。すると、またもやシカティックは左腕でロープを抱えたのだ。ここからの行為は非情で許されるものではなかった。ケアーの後頭部、脊髄にヒジを幾度も打ち下ろしたのである。当然、試合は止められシカティックの反則負けが宣せられた。

1ラウンド2分14秒、ケアーの反則勝ち。

納得のいかぬ結末に、場内からは大ブーイング。

なぜ、シカティックは”凶行”に及んだのか?

試合後、バックステージで彼は言った。

「私がラウンド数を含めルールを知ったのは昨日だ。それは以前に聞かされていたものと違っていた。この1カ月半の間、ロープを掴んでもよいという前提で作戦を立て練習してきたんだよ。それが前日になって『駄目だ!』と言われたんだ。

私は負けたくない。ならば、どうすればよかったと言うのだ?」

明らかな確信犯だった。

反則で試合を壊すのは仕方がない、ただ、完敗を喫することだけは避けたかったのだろう。

”凶行”に及んだのは、彼が「敗北拒否」の姿勢を貫くためだった。プライドもあったのか、ケアーの引き立て役には、どうしてもなりたくなかったのである。

マーク・ケアーの反則勝ちが告げられた瞬間、試合内容に納得がいかないファンから大ブーイングが沸き起こる。ブランコ・シカティックは静かにリングを降りた(写真:真崎貴夫)
マーク・ケアーの反則勝ちが告げられた瞬間、試合内容に納得がいかないファンから大ブーイングが沸き起こる。ブランコ・シカティックは静かにリングを降りた(写真:真崎貴夫)

まだレギュレーションも不完全であった20世紀の総合格闘技ならではでの珍事─。ちなみに、この『PRIDE.2』はスタンディング・バウト2試合を除く6試合すべてが、時間無制限で行われた稀なイベントである。

”伝説の拳”シカティックは2018年に肺塞詮症などで入院、その2年後に65歳で他界。その後にPRIDEのリングで活躍したケアーは、2009年8月『M-1 Global』でキング・モー(米国)に敗れたのを最後に闘いの舞台に上がっていない。

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストとして独立。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『伝説のオリンピックランナー”いだてん”金栗四三』、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。

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