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アンディ・フグが他界して20年。「青い目のサムライ」が私たち日本人に伝えたかったこと。

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
20世紀末、K-1のリングで幾多の激闘を繰り広げたアンディ・フグ。(写真:ロイター/アフロ)

「青い目のサムライ」

そう呼ばれて日本のファンに愛されたK-1ファイター、アンディ・フグ。

急性前骨髄球性白血病を患い、彼が他界したのは2000年8月24日。あの日から、ちょうど20年が経つ──。

KOされ続けた屈辱の日々

両親が離婚。親に見捨てられ祖父母に育てられたアンディがカラテを始めたのは、10歳の時だった。

メキメキと頭角を現し極真カラテの『世界選手権』で活躍。その後、闘いの舞台をK-1のリングへと移す。

カカト落とし、フグ・トルネード(下段後ろ廻し蹴り)といった必殺技を駆使、観る者を熱くさせたが、K-1のリングで闘った期間は僅か9年足らず。勝ち続ける絶対チャンピオンであったわけでもないアンディが、何故これほどまでに日本のファンに愛されたのか?

それは、彼が「不屈の闘志」の持ち主だったからである。

「私は絶対に諦めない。これからも修行を続け、必ずK-1のチャンピオンになる。そのためには想像以上の苦しみがあるのかもしれないが私はやり抜くつもりだ。カラテ家としてのスピリットを持って」

厳しい表情でアンディがそう話したのは、1995年の春。

『K-1グランプリ95開幕戦(3月3日・日本武道館)』でマイク・ベルナルドにKO負けを喫した数日後のことだった。

この頃、アンディは苦しんでいた。

極真カラテからK-1に転向するも、初めて出場した『K-1グランプリ』(1994年)でまさかの1回戦負け。米国人ファイター、パトリック・スミスに19秒でマットに沈められたのだ。

そして2度目の『K-1グランプリ』挑戦。今度は初参戦のベルナルドの強打を浴び倒されてしまう。

またもや1回戦で散ったアンディに対しては、辛辣な声が多く聞かれた。

「カラテとキックボクシングは別物なんだ。極真の世界大会で活躍したといっても、それはリングの中では通用しない」

「アンディは、もう30歳だろ。これからキックボクシングを体得するのは難しい。K-1でチャンピオンになるのは無理だ」

これらがオランダのキックボクシング関係者の見解だった。

K-1は、立ち技格闘技の最強を決める舞台だと位置づけられていた

「K」は、カラテ、キックボクシング、拳法、カンフー、それらの総称であると。

だが実際は、そうではなかった。

ルール的には「K-1=キックボクシング」だったのである。

つまり、ヘビー級の強豪キックボクサーたちにカラテ家たちが挑む構図が作られていた。

極真などのフルコンタクトカラテにおいては、顔面殴打は禁じられている。

だが、キックボクシングにおいては、当然のように相手の顔面を殴りつける。

この差は、大きい。

カラテ家がK-1のリングに上がるためには、まずは顔面を殴られる恐怖感を克服しなければならない。

それだけではなく、間合いの取り方から打撃技術に至るまで戦闘スタイルを変える必要もある。

アンディは、すでにカラテ家として完成されていた。だからこそ、スタイルチェンジはさらに難しいと周囲から見られていたのだ。

95年9月、横浜アリーナでベルナルドとの再戦が組まれる。

ファンは、アンディのリベンジを期待した。しかし、結果は2ラウンドKO負け。返り討ちに合ってしまう。

(やはり、アンディは、そしてカラテは、K-1では通用しない)

そんな空気が、さらに強く漂う。

だがアンディは諦めなかった。

母国スイスにいる家族のもとに戻ることなく日本に残り、苛烈なトレーニングを積むことを決意。幾度も沖縄に飛び、プロボクシング元世界王者の平仲明信氏から指導を受け、自らの戦闘スタイルをK-1のリングで勝つためのものへと変えていったのだ。

「闘い方は変える。でもカラテで培ったスピリットは不変だ。それがあるからこそ、目標に向かって苦しくても頑張れる」

そう決意するアンディについて平仲氏は、こう話していた。

「ハッキリ言うと、とても不器用なタイプでした。だから人の2倍、3倍練習をしたんですよ。凄いと思いましたね。アンディは、努力で強くなったんです」

ネバー・ギブアップの尊さ

もがき苦しみトレーニングを続けるアンディ。そんな愚直な男を神は見放さなかった。

そう、奇跡が起きたのだ。

1996年の『K-1グランプリ』。

開幕戦(3月10日・横浜アリーナ)でバート・ベイルを1ラウンドTKOで降したアンディは、決勝大会(5月6日・横浜アリーナ)でも快進撃を見せる。

巨漢戦士バンダー・マーブを1ラウンドで仕留めると、続く準決勝で再延長戦の末にアーネスト・ホーストから判定勝利を収めた。遂にグランプリ決勝へと駒を進めたのである。

決勝の相手は、これまでに2度敗れているマイク・ベルナルドだった。

ホーストとの5ラウンドにわたる死闘で、かなりの疲労を肉体に蓄積させていたアンディ。対するベルナルドも、ここまでの2試合でローキックを浴び続け、脚を削り込まれていた。

もはや、精神力の闘い。

制したのは、アンディだった。

2ラウンド、右ローキックで最初のダウンを奪い、その直後にフグ・トルネードでトドメを刺す。

アンディが、リング中央で左拳を突き上げ絶叫する。

超満員の観衆が、これに呼応。これまでのドラマを知るファンは、目に涙を浮かべていた。

遂にアンディは、夢をかなえた。

カラテ家として初めて、K-1グランプリ王者になったのである。

「ここに来るまでは厳しい道のりだった。でも、不可能などないと信じて闘い続けて本当によかった。勝因は、キックボクシングの技術を

体得できたこと、そして、カラテで培ったスピリットを持ち続けたことだ」

試合後、右瞼を大きく腫らしながらも表情に笑みを浮かべ、アンディはそう話した。

この日の闘いが、クライマックスだった。

その後もリングに上がり続けたアンディのK-1生涯戦績は47戦37勝9敗1分け。

ラストファイトは、2000年7月7日、仙台でのノブ・ハヤシ戦(1ラウンドKO勝ち)。それから48日後に、帰らぬ人となる。享年35。

アンディが私たちに伝えたかったこと。

それは、「ネバー・ギブアップの尊さ」──。

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストとして独立。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『伝説のオリンピックランナー”いだてん”金栗四三』、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。

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