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パレスチナ:ハマースが対イスラエル作戦「アクサーの大洪水」を開始

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を制圧するハマース(ハマス)が、イスラエルに対し陸、海、空で一斉攻撃を開始し、これを「アクサーの大洪水」作戦と命名した。アクサーとは、エルサレムに立つアクサー・モスクのことである。ハマースが何であるかは、別稿を参照されたい。ハマースがイスラエルに対する武装闘争を行うのは、イスラエルがパレスチナの地を占領し、土地や資源を収奪しているからだ。しかも、近年は中東和平が完全に頓挫する中、イスラエルによる土地の収奪と入植地の建設、そしてガザをはじめとするパレスチナ自治区への経済封鎖が続き、入植者の一部が武装してパレスチナ人の集落を襲撃することや、これに抵抗するパレスチナ人へのイスラエル軍による捜索・逮捕・追放が日常化していた。最近でも、ユダヤ教徒の祭りに合わせて連日イスラエル警察の警備を受けたユダヤ人入植者がエルサレムのアクサー・モスクに侵入するなどの挑発行為を繰り返していた。

 イスラエルからすると、ハマースが奇襲をかけてきたので、今後はこれに対する自衛措置としてハマースどころかパレスチナ人民全体への殲滅作戦を行うことになろう。ただし、これはあくまでイスラエルとそれに与する者のストーリーであり、上記のようにハマースやパレスチナ人民の側にもストーリーがあることを忘れてはならない。「先に暴力を振るった方が悪い」というルールの下、相手方に(暴力ではないが)悪質な挑発や嫌がらせを繰り返す者の姿は、本邦の日常生活でも駅や盛り場、ひどいときには職場や学校で結構見かけるものだが、そういう光景を想像してほしい。

 ハマースは、2007年にクーデターまがいの方法でガザ地区を制圧し、以後は同地区を経営する与党となった。そのため、ハマースはその与党としての地位を守ることを唯一無二の目標とし、かつての対イスラエル抵抗運動としての性質はすっかり影をひそめるようになった。もちろん、この間イスラエルがハマースを激しく攻撃する形の交戦は何度も発生したが、それに対してハマースがやったことは「予想の範囲内で」ロケット弾を発射したくらいで、イスラエルに深刻な打撃を与えるような作戦行動を回避し続けてきた。また、ガザを拠点とする別の対イスラエル抵抗運動であるパレスチナ・イスラーム聖戦(PIJ)がイスラエルの攻撃を受けた際も、イスラエルと本格的に戦って与党の座が危うくなるような損失を受けたくないハマースの態度は終始冷淡で、衝突が発生する度にPIJをブチ切れさせていた

 そんなハマースが、近年どころか同派の歴史を振り返ってもかつてないくらいの大胆かつ衝撃的な対イスラエル攻撃をかけたのが、今般の「アクサーの大洪水」だ。当初の報道で大きく扱われたのは、ハマースが多数のロケット弾を発射したことだ(一説には数千発と言われている)。確かに、ハマースはイスラエルにとっての重要拠点のほぼすべてを射程に収めるロケット弾を「それなりに」持っていて、これが本当にうっかり重要拠点に命中しようものなら本当に恐ろしいことになるのだが、重要なのはロケット弾ではない。イスラエル政府の推計によると、2023年5月にイスラエルが一方的にPIJをぶちのめした時点で、ハマースが保有するロケット弾たったの2万4000発だ(ちなみにPIJについては6000発で、これはイスラエルにとってはまさにないも同然)。そんなロケット弾を攻勢の最初に数千発も使ってしまったら、今後の経戦能力にも抑止力にも絶望的な穴が開いてしまうので、ハマースがロケット弾だけで戦うつもりなら自殺行為か、実はイスラエルの見積もりよりもはるかに(最低でも桁が一つ違うくらい)多数のロケット弾を配備しているかのどちらかだ。

 しかし、今般の攻勢がかつてないくらいの大胆かつ衝撃的なものである理由は、ロケット弾ではない。また、ハマースのロケット弾をイスラエルご自慢の防空システムがどのくらい阻止したかなんて、ニュースの価値としてはないに等しい。ハマースは、無人機から爆発物を投下してイスラエルの戦車を攻撃し、破壊したと主張する動画を配信している。実際に、遺棄されたイスラエル軍の戦車の上ではしゃぐパレスチナの若者の画像も報道機関から発信されている。また、ハマースはトンネルやモーターパラグライダーを用いてイスラエル側に戦闘員を送り込み、入植地や軍の拠点複数を制圧したと発表した。作戦により殺害されたり捕獲されたりしたイスラエル兵の動画や画像も多数出回っている。報道によるとイスラエルの死者は軍人・民間人合わせて20人を超えたそうだが、1日の死者数としては2006年7月にレバノンのヒズブッラーと交戦した件も含め、ほとんど記憶にない。イスラエルにとってはまさに「戦争」だろう。ハマースが戦車・装甲車も配備されたイスラエル軍の拠点を制圧しても、それらの車両や装備をわがものとして使用することは考えにくい。ハマースにとって今後の政治的・軍事的情勢推移で重要なのは、車両や装備ではなくイスラエル人の身柄や遺体だ。

 ハマースは、これまでも捕獲したイスラエル兵や奪取したイスラエル兵の遺体との交換でパレスチナ側の囚人釈放を実現し、政治的得点を上げてきた。イスラエル人やその遺体を重要拠点に配置すれば、イスラエルの攻撃を抑止することができるし、捕獲したイスラエル人が多ければイスラエルが試みる救出作戦の全てが成功するとも限らない。この種の紛争当事者にとっては、捕虜(囚人)奪還は味方の士気を維持・高揚する上で死活的に重要なので、捕虜(囚人)は絶対に見捨てることはできないし、救出作戦が失敗して人質が死んでしまった場合は政権が吹っ飛ぶくらいの大恥をかきかねない。つまり、ハマースが自殺的な攻勢を仕掛けたのでないのなら、同派にとって最も大切なのは、可能な限り多数のイスラエル人を捕獲して人質にしたり、イスラエル兵の遺体を奪取して取引材料にしたりすることだ。これに成功すれば、たとえ「戦争状態」でもイスラエルがハマースの拠点を更地やクレーターや焼け野原にするような攻撃はかけられないし、人質や遺体を材料に現在の政治的地位を守るどころか高めることもできるだろう。確かに今般の攻勢は筆者も含めあらゆる方面の予想を上回るもののようだが、その成否は奇襲が成功した間にどれだけイスラエル人の身柄や遺体を確保できるかにかかっている。ただし、本来解放すべき地域の1割にも満たないガザ地区の与党としての地位を守ることこそがハマースの唯一最大の目的である、との筆者の評価は変わらない。そのため、今後ハマースがイスラエルや「国際社会」につきつける要求や交渉事項で、収奪したパレスチナ人の土地や財産の返還、入植地の撤去や建設計画の破棄が挙がることはちょっと考えにくい。ハマースは、ここで上げた戦果を、パレスチナ人民のためではなく、あくまで自派の威信と政治的地位の向上のために使うことだろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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