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シリア移民・難民の帰還に対する意識について

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 紛争勃発から10年が経過したシリア紛争であるが、政治・軍事的な紛争の帰趨が定まった後もシリア人民の生活水準の著しい低下、シリア移民・難民の境遇、イスラーム過激派とそれを支援・正当化する者たちの害悪などなど、悪い材料に事欠かない。一方、何の意味があるかどうかはさておき、「10年」という時間の経過のキリがよかったせいか、日本語でもシリア紛争についての記事がここ数週間多数発信された。ただし、その多くは少数の対象へのインタビューをもとにした記事であった。この手法自体は、少数の観察対象と信頼関係を構築し、それに基づいて「タテマエ」ではなく「ホンネ」を引き出すという専門的・職業的な手法の一つである。しかし、この手法はそれを実践する観察者が、証言者がもたらした情報に基づいて議論なり筋書きなりを構築するのか、それとも観察者が事前に抱いている議論や筋書きを肯定するためだけに「現場の証言」とやらを集めるのか、といういろいろな「使い方」があることに無自覚な状態では、誤解・先入観・偏見を助長するだけに終わりかねない。

 特に、シリア紛争については、「支援者」を称する国・機関・法人・個人のほとんどが、本当はシリア紛争を「望ましい」形で収束させる意思も能力もないまま、「シリア人、カワイソー」と言い募るビジネスの世界と化してしまっている。つまり、取材や調査をすると称する人々にとっては、「カワイソー」の陳列棚と化したシリア難民の集団の中から、自分が抱いている主観・筋書きに沿った「証言」をする者を任意に取り出し、証言させればいいという手抜き取材や調査がいくらでもできてしまうのだ。「証言」させられる側も、そうすることによって多少のお駄賃がもらえるので、それを目当てに相手が望む「現地情報」をいくらでも提供してくれる「プロ」も現れる。ただし、そんな「プロ」たちがいくら頑張っても、何年も泥だらけの段ボールハウスやテントに住まわせられるという境遇から脱することは決して許されない。

 少数の観察対象との間の信頼関係に基づいて「ホンネ」を引き出す手法と相互補完の関係にあるのが、母集団(本稿の場合はシリア移民・難民かシリア人民全般)を代表するくらいの量・質の回答者を代表性のあるくらいの地理的な広範囲から抽出し、共通の質問する形式の調査である。これは、一般には世論調査として知られているものである。「紛争10年」関係の記事では一顧だにされていないが、シリア人民を対象にしたこの種の調査は各種国際機関・研究機関によって多数実施されており、重要な成果を上げている。シリア移民・難民についても、トルコに在住する者(=SuTPsと呼ばれる)や、シリア国内避難民(=IDPsと呼ばれる)、そして一般のシリア人を対象とする調査が実施されている。筆者が関与したものだけでも、SuTPsを対象とした調査が2017年2019年、IDPsを対象とした調査が2018年、そして国外避難民やSuTPsかIDPsだったが帰還した者と、避難経験のないシリア人を合わせて対象とした調査が2020年~2021年に実施された。

トルコ在住のシリア移民・難民たちは、2017年の時点では多くがシリアへの帰還を希望していた。彼らがトルコでの生活に満足していれば、シリアへ帰還する意志は減退するものと思われたが、「シリアへの帰還の意欲とトルコでの生活満足度」とは相関しているものの、その関係は「トルコでの生活満足度が高くても、シリアへの帰還を希望する」という関係だった。これが、2019年の調査(ただし、質問の文面が異なるので2017年の調査と単純な比較はできない)では、シリアへの帰還の意欲が著しく減退し、「シリアへの帰還の意欲とトルコでの生活満足度」との相関は「トルコでの生活に満足している者はシリアへの帰還の意欲が低下する」という関係に変わった。その一方で、いずれの調査においても回答者たちは「(シリアへの帰還を含む)今後の転居で重視する要素」として、一般に想定される「よりよい収入」や「身の安全」、「子供へのよりよい教育」だけでなく、「(転居や帰還の先に)家族・親族・友人・知人がいること」や、「家族との同居」、「文化的近似」、「宗教的帰属」を重視する傾向が強かった。2018年のIDPsの調査でも、転居・移動について同様の傾向が見られた。これは、シリア人移民・難民、避難民の間で、現在、そして将来の居場所を決めるに際し、家族や親族と共に居住することや、周囲と行動様式や価値観を共有できるかという「共同体志向」が強いことを意味する。

 2020年~2021年の調査では、調査対象のうち「2015年以降に転居を経験した者(=753人)」のほぼ全員がシリア国外での避難生活から帰還した者から抽出されていた。そこで、「シリア国外での避難経験の有無」と、上に挙げた「転居の際に重視する(した)要素」とをクロス集計し、その相関の有無の検定を試みた。その結果、「避難経験があること」と「(転居や帰還の先に)家族・親族・友人・知人がいること」や、「家族との同居」、「文化的近似」、「宗教的帰属」の重視との間には正の相関関係が見られた。すなわち、シリア国外で避難生活を経験した者たちは、その結果「共同体志向」を強めたということができる。そうなると、シリア移民・難民、国内避難民の自発的帰還を促すためには、単に紛争を収束させたり、「独裁者」を打倒したり、復興のために投資や援助をしたりするだけでは不十分で、シリア人民が「共同体」だと信じている社会的関係の維持や再建も不可欠であるということができる。

 非常に残念なことだが、シリア移民・難民、国内避難民の帰還の可能性や見通し、そのためにとるべき施策について論じる上で、「カワイソー」の陳列棚から取材者・研究者の意に迎合する者何人かに「証言」させれば事足りるわけではないことへの自覚や意識が乏しいように見受けられる。この問題は、より一般的な言い方をすれば「量的調査と質的調査との間の相互補完」の問題であり、専門的な領域ではすでに問題は「相互補完」ではなく「いずれの手法をとった場合でもそれを(主観的な感想の羅列ではなく)科学的に分析する」へと進んでいる。これに限れば、「ケンキューシャ」や「センモンカ」が社会の需要から遊離したあらぬ方向へ暴走しているのではないので、今後必要になるのは報道機関・官庁・企業、そして一般の読者が、様々な取材や調査の結果を「感情に訴える(エモいっていうらしいが…)ネタ」として浪費するのではなく、必要な政策や行動をとるための判断材料として読む力を養うことであろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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