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中東:肉のない犠牲祭

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 マッカ巡礼(ハッジ)の最後、巡礼の参加者たちは供犠を捧げ、巡礼に赴かなかった者たちも各々の居住地で供犠を捧げて祝祭とする。これは、犠牲祭と呼ばれるムスリムにとって重要な祝祭の一つだ。この時期が近付くと、都市部の路上には供犠に供するための羊や山羊などが連れてこられ、犠牲祭当日は各所の精肉店や家庭でこれらの動物を処理する光景がみられる。動物の肉は、これを購入した家庭で消費するだけでなく、近所の住人や困窮者にも分配され、「貧者に施しをする」というムスリムとしての義務を果たす機会にもなる。

 しかしながら、羊などを購入して供犠を捧げることができることが困難になっている場所が広がっているようだ。2019年秋から経済危機が深刻化し、アメリカ・ドルに対する通貨の価値がおよそ3分の1に下落してしまったレバノンでは、供犠用の羊の価格が前年比で2倍~3倍に値上がりした。その結果、羊の需要は5割~8割減少したそうだ。業者らは、需要が縮小している原因を通貨の下落に伴う価格の暴騰であると考えている。レバノンでは、人々が宗教団体や基金にお金を提供し、供犠用の羊の価格を低く抑える仕組みがあるが、これをもってしても価格の高騰を補うことはできないようだ。

 リビアでも、人民が犠牲祭に肉を購入することが困難になっている。同国では、紛争が深刻化しているが、これが物価高騰に拍車をかけた。また、中国発の新型コロナウイルスの感染拡大により、人民が市場の混雑を忌避するようになったことも販売不振の原因らしい。羊などそのものの値上がりに加え、紛争で安全に不安がある中で輸送費も高騰している。これらの結果、リビアでは銀行から引き出し可能な上限額よりも羊1頭の価格の方が高額となり、人々が犠牲祭のための羊などを購入する能力が著しく低下した。

 レバノンとリビアの人民が、犠牲祭という重要な祝祭に必要な肉を買うことができないという状況の原因は、新型コロナウイルスの蔓延という世界規模の経済的困難だけでなく、中東諸国が国内外で抱える紛争や外交対立にもある。また、長期的にみると無軌道ともいえる人口の増加や経済成長の低迷、各国政府の財政難による補助金の削減など、人民の生活水準を低下させる要因は枚挙にいとまがない。先日紹介したイラクでの給与遅配問題、結局犠牲祭までの支給はできなかったようだ。イラク人民は、水道や電力供給のようなサービスの不足に対する不満も募らせている。中東諸国での生活水準の低下の問題は長期的な傾向とさえ言え、現在の紛争が勃発する前の2012年のイエメンについても、犠牲祭に肉を購入することができないという生活苦に関する記事が紹介されている。つまり、人民が羊を買うことができないという本稿の話題は、中東諸国が抱える様々な政治・社会問題と、その解決の障害となっている諸要因を観察・分析する入り口とみなすべきものである。筆者がレバノンについて、宗教・宗派共同体を政治的利権分配の単位とし、柔軟な意思決定ができない同国の政治体制が経済危機への対応を妨げている要因であることを、別稿でたびたび指摘してきたのも、レバノンの政治・経済危機が一過性の現象ではないとの議論の一環である。

 本邦においては、中東諸国の事情への関心を維持し続けることが困難である。その結果、中東諸国で「何かあるたびに」情報収集やそのための体制強化が叫ばれる「だけ」を繰り返してきたともいえる。この状態から脱するためにも、日ごろから中東諸国の事情に関心を持ち、情報を発信・受容する人々の範囲を広げることが重要である。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会など。

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