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ブラジルに惨敗すれば怒り、ホンジュラスにホームで大勝すれば胸をなで下ろす日本。

杉山茂樹スポーツライター

遠藤保仁、長谷部誠と言えば、ザックジャパンを象徴する選手になる。その前の岡田ジャパンを象徴する選手でもあるが、この2人をスタメンで起用したアギーレの選択に、意見が割れるのは当然だろう。2018年には38歳になる遠藤の起用に疑心暗鬼になる人は、とりわけ多いはずだ。

アギーレも鈍感ではないと思う。世の中からそうした目で見られていることは承知の上だと思う。にもかかわらず、選んだ。理由は簡単だ。勝ちたかったからに他ならない。ではなぜ、そうした気持ちに駆られたか。周囲の声、世論が耳に入ったからだ。それに少なからず屈したのだと思う。

実際、ホンジュラス戦当日の朝のテレビでは、アナウンサーが、アギーレジャパンの通算成績(1勝2敗1分)を、「これまで4戦してわずか1勝のアギーレジャパン」と報じていた。アジア杯で優勝しないとアギーレは信認されたことにはならないと、その優勝を必須の命題だとするメディアも目立っている。

だが、これらは無茶苦茶な意見だ。

過去4戦の中には、勝利が金星に値する試合が2試合(ウルグアイ戦、ブラジル戦)含まれている。GK川島永嗣の予想だにしないキャッチミスで引き分けに持ち込まれた試合(ベネズエラ戦)もあった。相手のレベルは均一ではない。

アジア杯の話をすれば、前回は確かに優勝したが、準決勝(韓国戦)、決勝(豪州戦)は、もう一度戦えば、別の結果になっていた可能性の方が高い、幸運を味方につけた試合だった。必須の命題に相応しいのはベスト4。自力以外の要素が不可欠な優勝を必須とするのは、かなり乱暴な話だ。

結果至上主義、勝利至上主義。アギーレは、日本を覆うこのムードに、さっそく気付いたに違いない。ブラジルW杯後も、Jリーグで好調を維持する遠藤を起用すれば、ゲームは落ち着く。かなりの確率で勝利は期待できる。世の中の批判をひとまずかわすことができる。そう考えたとしても不思議はない。

つまり、アギーレを少し弱気にさせた原因の一端は「我々」にある。多少強引に言えば、遠藤は、我々が遠回しに起用を望んだ選手と言えるのだ。

9月、10月、11月に行なわれる6試合は、アジアカップのための準備試合と位置づけられている。では、アジアカップの位置づけは何なのか。W杯同様、日本が総力を挙げて臨むものなのか。ユーロに臨む欧州各国は、それにW杯と同等の価値を置く。4年に一度ではなく2年に一度、本番が訪れる。代表強化は2年、4年、6年、8年と、2年単位で進行する。大物選手の代表チーム引退も、それが節目になる。

アジアカップをどう捉えるか。大物選手が代表を引退する時期は、それに呼応する。W杯同様「本番」と位置づけるのか。その優勝チームに与えられるコンフェデレーションズ杯出場に大きな価値を求めようとするなら、アジアカップが「節目」になっても構わない。

遠藤を選ぶ、選ばないは、そうした根本的な話と深く関わる問題だ。そしてそれは、アギーレが判断するべきものではない。日本サッカー協会が判断することだ。その責任者は、アギーレを招聘した中心人物でもある原博実専務理事になるが、彼は最近あまり表に出てこない。サポートする態勢は弱いように見える。アギーレに批判が直に向く仕組みになっている。 

遠藤の件で、アギーレが責められるとすれば、アジアカップ後も代表に招集した場合だ。2018年から逆算してものを考えた時、これには大義名分がない。

ホンジュラス戦。とはいえ、アギーレは遠藤を最後までは使わなかった。長谷部についても同様。それぞれ後半の途中、ベンチに下げている。従来の有力選手である柴崎岳、田口泰士をしっかりピッチに立たせている。次戦、豪州戦のスタメンはこれにより、いい意味で不透明になった。

ザックジャパンを想起させる布陣で始まったが、最後はアギーレのオリジナリティがピッチにしっかり反映されていた。借り物色はすっかり薄れていた。

サッカーそのものは、全体を通してみれば半々。ザック色半分、アギーレ色半分だった。

アギーレ色が反映されていたのは、相手ボール時の対応だ。それがルーズだったザックジャパンとは、明らかにボールの奪い方が違っていた。選手は相手ボールをよく追いかけた。

「まず守りから」とは、アギーレが就任記者会見で述べた台詞(せりふ)だが、大量リードを奪いながら、この試合が最後までダレなかった理由は「まずボールを奪う」という基本姿勢が貫かれたことにある。チャンスのほとんどは、相手のミス絡み。よいタイミング、よい場所でボールを奪い、それが攻撃の基点に直結していた。

ボールを繋ぎまくり、奇麗に崩したというより、奪った勢いを活かし、一気呵成に攻め立てたという感じだ。サッカーそのものは決して美しくなかった。

一方、ザックジャパンと似ていたところは、遅攻になった時の攻撃のルートだ。真ん中に偏りがちになるその展開には問題ありだ。幅を広く保たずに真ん中ばかりを行く。そこで難易度の高いパス、言い換えれば、生産性の低いパス交換を行なえば、奪われる確率は高くなる。ブラジルW杯コロンビア戦を彷彿とさせるようなシーンが何度となく目に付いたのだ。ホンジュラスにもう少しボールを奪う技術があれば、カウンターに鋭さがあれば、失点を喰っていたに違いない。

6−0。これでアギーレジャパンの通算成績は2勝2敗1分のタイになったわけだが、この事実からも、代表チームに通算成績という物差しを当てることが、どれほど無意味なことかが分かると思う。

ホームのホンジュラス戦と、ブラジル戦、ウルグアイ戦の持つ意味は違う。通算成績を物差しにするなら、アウェー戦は行なわない方がいいし、強い相手とも戦わない方がいい。

それでは、強化には全くならない。試合後の監督会見で「これまでの4試合と違って何が良かったのか?」との質問が向けられたが、一番違ったのは相手のレベルだ。相手の力はいつも同じではない。勝ち、負け、引き分けの意味も、そのつど違う。

ブラジルに0−4で敗れれば怒り、ホンジュラスに6−0で勝てば胸をなで下ろす。この視点で代表チームに向き合う姿はあまりにも能天気。愚かだ。代表サッカーの面白さは、それとは全く別の次元に潜んでいる。弱小相手に、遠藤を使って勝利を収めても、長期的に見て得るものはほとんどない。僕はそう確信している。

(集英社 Web Sportiva 11月15日掲載原稿「ホンジュラス戦大勝にも疑問符。アギーレ色はまだ半分」)

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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