マスコミは猟奇事件の容疑者をどう報じるか――2005年「奈良幼女誘拐殺人事件」における物語化

扇情的になり始めた報道(日刊スポーツ2016年3月31日付)

行方不明だった女子中学生が、大学を卒業したばかりの青年によって誘拐・監禁されていた事件に注目が集まっている。入院していた容疑者は本日逮捕され、捜査はこれから進展すると見られるが、一部ではすでにこれを「オタクの犯行」とする報道もある。

こうした今回の報道を検証する前に、11年前に生じた奈良の幼女殺害事件の報道を振り返ってみたい。この事件は、2004年11月に奈良で小学1年生の女児が殺害され、年末に中年男性が逮捕されたというものである。このときの報道と、それを受けたネットなどでの反応は、これから見られるかもしれない扇情的な報道に対して大きな参考となるだろう。

なお、以下は2005年1月16日に筆者がブログで発表した記事の再録である。11年後の現在に読みやすいように、一部加筆・修整を加えている。

狂騒的ではなかった報道

2004年11月に奈良で小学生の女子児童が誘拐・殺害された事件は、年末に小林薫容疑者が逮捕され、事件は収束に向かっている(※1)。この事件で私が注視していたのは、容疑者逮捕以降にどのような報道がなされたか、ということだ。それは、この事件がどのような「物語」としてまとめられていくか、という過程でもある。

ここまでの具体的な流れを振り返ると、年末年始を挟んだということもあり、報道が極端な方向に傾いてことさら加熱することはなかった印象を受ける。実際、現在の報道の中心は性犯罪者の再犯防止策を講じるものであり、事件が非常に陰惨ゆえに情緒に訴えかける内容にもかかわらず、極めて冷静かつ生産的な方向に傾いていると思う。

もちろん、多くのひとが指摘したように、ジャーナリストの大谷昭宏による「フィギュア萌え族」というカテゴライズなど、事件を矮小化するのような言説もなくはない。が、今回の報道を目の届く範囲で観察すると、そのような過剰かつ乱暴な物語化で目立ったのは、大谷以外には、小田晋や野田正彰くらいにしかいない。つまり、今回の事件では、1989年に逮捕された宮崎勤による幼女連続誘拐殺人事件のときのような狂騒はない。

では、今回、メディア各社はどのようにこの事件を報じ、小林薫容疑者はどのようなレトリック=物語で語られてきたのか? それを以下に整理して、宮崎勤事件のときの報道を比較してみよう。

〈物語1:不幸な生い立ちによる犯行〉

どのような事件報道でも、概ね事件に至るまでの容疑者の社会状況における立場やその動機を解明することを目的としたアプローチが行われる。今回もその例に漏れることはない。そこでは大きく分けると、三つの語り方で小林薫容疑者は物語化されてきた。それが以下である。

  • 物語1・不幸な生い立ちによる犯行
  • 物語2・ロリコンによる犯行
  • 物語3・新しいタイプの変質者による犯行

まず〈1・不幸な生い立ちによる犯行〉は、小林容疑者が幼少の頃に母親を亡くし、弟に重度の障害が残り、89年に女子児童への性暴力事件で逮捕された以降は、親族と絶縁状態だった──という物語だ。

たとえば、毎日新聞2005年1月1日の朝刊では、そのような彼の半生が描かれ、最後は「『殺して捨てた』『誰でもよかった』。小林容疑者は奈良県警捜査本部の調べに、うなだれることもなく、淡々と答えたという。/そこには、かつて母親の死に涙した少年の面影はなかった」と結ばれている。

『AERA』2005年1月17日号(朝日新聞社)は、「本当はかわいそうな子。母親が死に、父親は足の悪い祖母とほかの子どもを抱えて余裕がなく、(小林容疑者は)私を頼ってきた。『父ちゃんはおこってばかり』と言ったこともありました」という小林容疑者の知人のコメントを掲載している。

『週刊新潮』2005年1月13日号(新潮社)では、「特に父親が荒れてしまって、その矛先が薫君に向かったんやと思う。酒が入るとよく薫君をよく殴ってました。生活は荒んでましたよ。父親は満足に子供達に食事も作ってなかったと思う。若い頃の薫君はガリガリに痩せてましたから」という、小林容疑者が生まれ育った地域住人のコメントが掲載されている。

これらのような容疑者の生い立ちについての記述は、〈2・ロリコンによる犯行〉、〈3・新しいタイプの変質者による犯行〉という物語に至る契機として置かれていることが強い。つまり、「不幸な家庭に育ったから、ロリコン/変質者になってしまった」という物語だ。

もちろん、社会を賑わせた事件の報道において、このような生い立ちを探るアプローチは特段珍しいものではない。今回のケースでは、小林容疑者の不遇だった家庭環境へのまなざしがとくに目立っている。

実際に不遇だったかどうかの真偽はともかく、このように問題を「貧・病・争」のいずれかで語るのは、古典的とも言えるとても定式化した物語だ。実際、70年代に入るまでの戦後の大きな事件では、このような貧しさに要因を求める物語が非常に目立つ。被差別部落地域出身の人物が容疑者として逮捕された狭山事件(1963年/※2)や、「金の卵」として状況してきた19歳の青年による連続射殺魔事件(=永山則夫事件/1968~1969年)などは、その背景にまだまだ貧しかった日本の姿が見え隠れする。それゆえ、これらの事件では被告に対する同情的な物語として「貧・病・争」というレトリックが使われることもあった。

だが、そうした物語は、70~80年代にかけて徐々に目立たなくなっていく。それは日本が経済的に豊かになっていく過程で、だれもが納得、もしくは共有できていた「貧・病・争」の物語が機能しなくなっていったからである。また、たとえなんらかの事件が実際に「貧・病・争」の背景を持っていても、読者への訴求力を考えたときにマスコミが積極的に採用しなかったことも推察できる。

〈物語2・ロリコンによる犯行〉

次に、今回の事件でもっとも語られている、〈2・ロリコンによる犯行〉のパターンについて説明する。

たとえば、小林容疑者の自宅から、幼女の下着やロリコン系アダルトビデオ、雑誌が押収されたことは、多くの報道でなされている。具体的には、「自宅の捜索では、女児の携帯電話や給食袋などの入ったランドセル、ジャンパー、下着や靴、靴下などが見つかったほか、ロリコンビデオ約百本、ロリコン雑誌約五十冊、盗んだとみられる女児用下着約百枚なども発見された」(産経新聞/2005年12月31日)といったものだ。

ただ、それらはさほどバイアスがかかったものではなく、捜査状況において明らかになってきたことを淡々と報じているようなものが多い。少なくとも、宮崎勤事件のときのような過剰さはない。

1989年夏に宮崎勤が逮捕されたとき、報道は激しく加熱した。彼には右手に障害があり、それが人格を歪めてしまい事件に至った──といったタイプの報道もあったが、それは全体としては少数派で、それよりも彼の性嗜好を「異常」としたり、人格をオタク的病理として物語化する向きが目立った。たとえば、以下のような報道は、宮崎事件のときの典型的なもののひとつだ。

ロリータものと呼ばれる一群の雑誌がある。その最大手の1つ、月刊「ロリくらぶ」は毎号2万3000部。少女のヌード写真や、幼児との性愛を描いたマンガの載る雑誌が、流通経路に乗って街の本屋さんにあふれている。読者は若者が多い。幼児性愛、幼児への犯罪は昔からあった。だが最近、「ひとりぼっち人間」型がめだって多い、と亜細亜大の柳本正春教授はいう。

教授によると、都市化が進み、個人への社会の干渉が弱まるにつれ、自分だけの閉鎖的な世界に閉じこもる若者が増えてくる。成熟した女と付き合えない成熟しない男たちは、自分が支配できる幼児たちに向かうのだという。

たしかに、宮崎は「ひとりぼっち人間」だった。閉じこもった世界はアニメ、写真、ビデオである。だが、こうした幼児性、孤立性だけでは説明できないのが犯行の残虐さだ。

出典:朝日新聞朝刊1989年8月14日付

今回の事件では、このときほどの過熱報道はいまのところは見られない。だが、やはり宮崎勤事件との類似性を指摘する向きはある。

たとえば、前出の『AERA』では、マスコミに頻繁に登場する心理学者の以下のようなコメントを掲載している。

(略)それはさておき、少女への性犯罪がエスカレートし、行き着いたのが今回の事件だというのは、ほぼ間違いないだろう。

福島章上智大名誉教授(犯罪心理学)は言う。

「小児性愛者は、幼児期に十分甘えられなくて、安心感や信頼感を持てなかった人が多い。連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤被告は、家族でただ一人信頼できた祖父の死。小林容疑者は母親の死が引き金を引いた面があるかもしれません」

出典:『AERA』2005年1月17日号(朝日新聞社)

ここでは、不幸な家庭環境が彼らを小児性愛者にしてしまった、というレトリックが採用されている。しかも、その家庭環境とは、「貧・病・争」といった旧来型の物語に回収されるものではなく、親族の愛情を幼少期に十分に注がれてこなかった点に「原因」が見い出されている。

朝日新聞朝刊1989年8月14日付
朝日新聞朝刊1989年8月14日付

レトリックで目立つのはこのようなタイプだが、しかし今回の事件では、容疑者が犯罪に至る動機をことさら過剰に解明しようという向きはあまりない。それよりも容疑者の逮捕当初から重点が置かれているのは、前歴のある小児性愛者の再犯をいかに防止するかという議論である。このときに頻繁に取り上げられてきたのは、性犯罪者の居住地を公開するアメリカのメーガン法や、韓国やイギリスの例だ。そのような論調の高まりは、性犯罪者の出所後に住所を把握し続けることを警察庁が検討し始めたという影響を見せている。

この警察庁の対応の善し悪しはともかく、宮崎事件のときのように犯罪者にすべてを帰責させて物語が収束したことに比べれば、今回の報道の論調は全体的にはとても理性的かつ生産的なものだと言えるだろう。

〈物語3・新しいタイプの変質者による犯行:小田晋編〉

宮崎勤と小林薫容疑者の比較は、他にも見られる。『週刊新潮』1月13日号では、「『奈良女児殺人犯』の歪んだ半生:『宮崎勤』とウリ二つだった」というタイトルで特集記事が組まれた。

この記事で小林容疑者と宮崎被告が「ウリ二つだった」とされているのは、ひとつが『AERA』の記事と同様に幼女への性嗜好である。だが、注目すべきはそれ以外の指摘のほうだ。それは、両事件が「劇場型快楽殺人」で「犯人に愛の『物象化傾向』がある」というものである。

この指摘をしているのは、精神科医でもある帝塚山学院大学の小田晋教授だが、彼は以下のように二つの事件を論ずる。

「宮崎は『今田勇子』の名前で犯行声明を出し、小林も『娘はもらった』と母親にメールを送り付けている。つまり彼らは自分の犯行を報じられたいという欲求を持っており、それによって恍惚感と達成感を得るんです。もうひとつの共通項は、愛の物象化傾向です。2人とも性の対象が、大人の女性よりも幼女、幼女よりも幼女の死体、幼女の死体よりも、宮崎なら死体を撮影したビデオ、小林なら携帯の画像というように、生身の人間からどんどんモノに向かっていく傾向にあるのです」

出典:『週刊新潮』2005年1月13日号(新潮社)

その大意は、「小児性愛者が、人をモノのように見てしまっている」ということだ。このような発言は、宮崎勤事件当時から小田が繰り返してきたことである。

たとえば、前出の1989年8月14日の朝日新聞でも、小田は以下のように述べている。

性倒錯者は相手を「モノ」として見る傾向がある。宮崎は遺体を自室に何日か置いていたというが、自分のモノとしてコレクションにしていたのだろう。殺すだけより、小さく解体する方が、よりモノに近くなる。性衝動と、殺してバラバラにする攻撃衝動、所有欲が、ここでは手を結んでしまっている。典型的な「快楽殺人」だ。

人によっては、3つの衝動の1つが刺激されると他の衝動に波及してしまう。今の時代、ビデオなど、性衝動をかきたてる材料は身近にあふれている。「ひとりぼっち人間」は空想の中で生きる。ビデオが山と積まれたあの部屋は、空想をかきたてる場所だったはずだ、という。

出典:朝日新聞朝刊1989年8月14日付

宮崎勤事件の際、これ以外にも小田は数多の発言を提出し、それは一部では物議を呼んだ。たとえば、都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む:全資料・宮崎勤はどう語られたか?』(1989年/JICC出版局)では、前半部に「小田晋グラフィティ──心からみた幼女連続殺人事件」と題した見開きページで、雑誌・新聞等での小田の発言が集められている。それほどまでに、宮崎事件の際にの発言は目立ったと言えるだろう。

斎藤環『心理学化する社会』(2003→2009年/河出文庫)
斎藤環『心理学化する社会』(2003→2009年/河出文庫)

もちろんこのような論調は、小田にかぎったことではない。猟奇的もしくは劇場型の事件が起きたときに精神科医がコメントを出すことは、80年代以降は非常にポピュラーなものだ。前出の福島章もそうだが、他にも、宮崎勤を「1・5の世代」と呼んでさまざまな雑誌・書籍でコメント繰り広げた小此木啓吾(故人)や稲村博など多くの精神科医の活躍(?)が目立った。

それらに対し、『社会的ひきこもり』(1998年/PHP文庫)で注目された精神科医の斎藤環は、『心理学化する社会』で、80年代以降、とくに宮崎勤事件以降にこのような精神科医の立ち振る舞いが一般化ことについて言及している。そこには自身が当事者であることを踏まえた上での、反省的なまなざしがある。

やはり「宮崎勤」を契機として、なにかが決定的に変質したのではなかった。八九年以前は「コメント」は常に「事件」に、あるいは「事実」に追随していた。しかし八九年以降、この関係が徐々に逆転しつつあるようにも思われる。それは「精神分析」の登場以降に、それ以前にはなかったさまざまな疾患(「境界例」「多重人格」など)が出現した経緯と似ている。

メディアによって解釈され、あるいは物語化されること。事件の当事者は、そうした欲望に基づき、あたかも存在確認のようにして犯罪を犯す。少なくとも「宮崎勤」から「酒鬼薔薇」を結ぶ線上において、そのような変質が見て取れるように思う。周知のように「酒鬼薔薇」に至っては、逮捕以前から「犯人推理」を含むコメント合戦が行われ、逮捕後はいっそう物語化が促進された。その結果、またしても一人の巨大なアンチ・ヒーローが誕生したのである。ここまでの事態に至ったことは、おそらく本人の思惑すらも超えていたであろう。

出典:斎藤環『心理学化する社会――なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』p.143-144(2003年/PHPエディターズグループ)

〈物語3・新しいタイプの変質者による犯行:野田正彰編〉

さて、小田以外にテレビや新聞で精神分析の視座からコメントをして目立っていたのは、関西学院大学の野田正彰だ。野田は、「ケータイ中毒」という切り口で小林容疑者を分析し、その上で社会政策的な提言をする。

また、野田正彰・関西学院大教授(精神病理学)は「携帯電話という道具立てが特徴的だった」とし「社会的に引きこもり、深い人間関係が持てない人格と携帯電話は親和性がある。容疑者は携帯中毒状態で、使わざるを得ない心理が、遺族をいたぶることになってしまった」と分析した。

(略)

野田教授は、女児を対象にした犯罪自体は昔から変わらずある、とした上で「ビデオショップやネットなど、身近に強烈な情報がある。異常なほどの刺激の質と量をもっと社会は認識すべきだ」と訴え、「厳罰ではなく、性衝動をどうコントロールし、表現していくか、治療的なプログラムを実施しない限り、類似の事件はなくならない」と強調した。

出典:毎日新聞朝刊2004年12月31日付

野田は、小林容疑者逮捕以前からこのようなコメントを展開している。私が確認できた範囲では、NHKのニュースでも「ケータイ中毒」を強調し、容疑者逮捕後のニュースでも同じような論旨を繰り返していたと記憶する。

このような野田のレトリック──「メディアに毒された人間が事件を起こした」という物語──は、新しいメディアが普及するたびに見られたものだ。たとえば、チャーリー・チャップリンは映画『モダン・タイムス』(1936年)で産業社会(工業化社会)を風刺し、また、クレイグ・ブロードは『テクノストレス』(1984年/新潮社)で、コンピュータの普及する社会に警鐘を鳴らした。

他にも、1920年代にニューヨークタイムスなどでジャーナリストとした活躍したウォルター・リップマンは、マスメディア(当時は新聞)が大衆(読者)に強い影響を与えると指摘した「メディア強力効果説」を提唱し、歴史学者・社会学者のダニエル・J・ブーアスティンは、1960年代に『幻影の時代――マスコミが製造する事実』(1962=1974年/東京創元社)で、マスコミ報道が現実とはべつの環境=「疑似環境」を作り出し、それが多大な影響を与えることを指摘した。

かように、電話やテレビ、コンピュータ、TVゲームなどの新しいメディアがなんらかの事件や出来事のときに矢面に立たされるのは、非常に古典的なレトリックといえる。

さて、野田は、宮崎勤事件のときも「マンガやアニメを通してでなく実際の対人関係の中でトレーニングし、土台作りをしていく。これを失敗すると人間関係を知識として得るだけで、ほんとうの人間関係が作れない悪循環に陥ってしまいます」(『週刊ポスト』1989年9月1日号)とコメントを発表してもいるが、宮崎勤が逮捕される半年前に起きた事件でも同様のレトリックを使っている。

これは、1989年の3月に、東京・麹町で起きた、小学4年生の男子児童を22歳の自転車組立工の青年・Hが絞殺した事件だ。まず事件をおさらいしておこう。これは、ひとり暮らしの青年の家に頻繁に遊びに行っていた10歳の小学生が、その青年に殺されたという事件だ。報道では、青年の家には、TVゲーム機が5台あり、他にもミニ四駆(プラスチック製の小型四輪駆動車)、「ビックリマンシール」などの「小学生に人気のあるおもちゃ」がそろっており、それを目的に小学3~5年生の男の子たちが遊ぶために頻繁に出入りしていたという(朝日新聞夕刊/1989年3月6日)。

このとき『週刊SPA!!』では、「麹町小学校4年生殺人事件――増加するゲーム世代“オタク族”のやっぱり起こった『倒錯殺人』」という特集が組まれている。この記事は、〈オタク〉という存在を〈新しいタイプの変質者〉として、直接事件に結びつけて適用した最初期の言説のひとつである。

『SPA!!』は、この事件を野田正彰へのインタビューで構成しているが、そこで彼は容疑者(当時)のHについて「年齢的にいうと典型的な新人類」と前置きした上で、事件の原因に彼の「社会的訓練の欠如」をあげる。〈オタク〉という言表は、このような野田のコメント内には見られないが、コメントを受けた地の文で、「小中学生から大人まで、ゲームやプラモデルに熱中する仲間」で、「新人類の一種族」だと説明されている。

しかしながら、このときの野田はやはりメディアに事件の要因を読みとろうとする。

「社会は、この事件で、管理社会から落ちこぼれて少年的世界にこもり、非社会的な生活を送る男が何をするかわからないという教訓を読み取ったんじゃないですか。

子供は自分なりに城を作っていくものですが、それが時間的に伸びきってしまって大人になっても憧れる人が増えている。団塊の世代でも、テレビゲームやマンガに夢中になりますからね」

出典:『週刊SPA!!』1989年3月23日号(扶桑社)

この言説のポイントは、「TVゲームやマンガで部屋にこもりきりになるから、社会性が乏しくなり、犯罪に走ってしまう」という点だ。つまり、TVゲームなどがコミュニケーション能力を阻害するものとして捉えられている。

このような記事がつくられる背景には、この2年前に出版され、第16回大宅壮一ノンフィクション賞受賞もした野田正彰の著書、『コンピュータ新人類の研究』がある。この本は、コンピュータ(TVゲームも含む)を扱う少年・青年たちを数多く取材したもので、このなかには以下のような一文がある。

しかし今、私たちが直面している自閉においては、外界が現実的意味そのものを希薄にしている。現実は重力感を持った凹凸を失い、透けて明るく整理されている。自分の視線の届かないところは、関心がないと切って捨てることができる。それにつれて、内面の世界も明るく見通しのよいものになる。いや、内的世界すら、希薄になった外界の幻影に置き換えられているのかもしれない。

このような印象は、現代の青年に多少とも感じるものであり、コンピュータリズムの青年に限ったことではない。とはいっても、コンピュータの周辺で、このタイプの青年に会う頻度はかなり高い。

出典:野田正彰『コンピュータ新人類の研究』(1987→1994年/文春文庫)

このような言説は、「メディアによって虚構が増幅され、それが現実になんらかの影響を与えてしまう」というような、「虚実論」=「メディア強力効果説」もしくは「疑似環境」論の亜種と言えるものだろう。

野田は、宮崎勤事件の際に『朝日ジャーナル』誌上で発表した論説では、一部慎重な姿勢を見せており、また今回の事件でも再犯防止策を提示しており、ことさらに事件を煽るだけでもない。しかし、そのような提言に至る前段階に、前述したような「物語」があるのだ。

〈物語3・新しいタイプの変質者による犯行:大谷昭宏編〉

今回、「新しいタイプの変質者」というレトリックで小田や野田よりも一層目立ったのは、「フィギュア萌え族」という独自の造語をテレビなどで繰り返した大谷昭宏だ。

大谷は、容疑者逮捕前の11月に「ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない」(日刊スポーツ・大阪エリア版2004年11月23日付「大谷昭宏フラッシュアップ」)と断じている。

この論説が、宮崎勤事件の際のオタクバッシングで見られた典型的なものであることは、ここまでを踏まえればよくわかるだろう。具体的には小田の紡ぐ物語に近しい印象だ。違うのは、そこでバッシング対象となっているのが、宮崎勤事件のときのようにアニメなどではなくフィギュアだという点にある。

しかし、その後の報道で、容疑者がフィギュアマニアもしくはオタクだったと認識できる報道は、私の目の届く範囲ではいまのところほぼない。あるとすれば、「誘拐容疑で逮捕された元毎日新聞販売店員の小林薫容疑者(36)の自宅には、スクール水着に女性用の下着や女の子の服などを詰めて作った“人形”があったことが3日、奈良西署捜査本部の調べで分かった」(共同通信2005年1月3日付)というものくらいだが、状況的に考えてこれが「人形」だと断じることができるかどうかは、激しく疑問である。どちらかと言えば、トルソーに近しいものを想像できるが、それは「人形のようなもの」とは言えても、「人形」ではない。

それよりも前述したように、この事件は容疑者の過剰な動機追究よりも、前歴のある幼児性愛者による再犯防止策の方向に話題は傾いている。もちろんなかには『週刊文春』1月20日号のように、「鬼畜・小林薫が殺害現場で強いたセーラー服変態プレイ:出張ヘルス嬢衝撃告白」という記事もある。これはタイトルにもあるように、小林容疑者を客としてサービスを施した風俗嬢の告白である。その真偽は不明だが、この記事は小林容疑者が「セーラー服もの」の無修正アダルトビデオを観ながらサービスを受けたという一部始終が描かれている。

なんにせよこの記事も、小林容疑者の“特殊な”性嗜好はうかがえるものの、それがオタク的あるいは「フィギュア萌え族」的だと断じるような類の記事ではない。つまり、大谷が容疑者逮捕後も繰り返しテレビ等で述べているオタクバッシングは、報道を全体的に見るとごく一部だという印象を受ける。

しかし、「物語」は終わらない

以上のように報道を検証してきたが、一部にはこのようなマスコミの報道そのものに嫌疑の眼を向ける向きもある。たとえばそれは、「マスコミは客観的な事実を報道せずに、勝手にウソの『物語』をでっちあげやがって!」という類のものだ。しかし、それはそれでまた極論である。

というのも、残念ながらそんな「物語」を欲しがる消費者(読者、視聴者)は、世の中にたくさんいる。事件報道だけでなく、芸能人のゴシップではありもしない記事が溢れ、それを興味本位で消費する人はたくさんいる。そこで「私はそんな記事は読まない!」と胸を張って言える人は、どれほどいるだろうか。大谷が「フィギュア萌え族」という造語を作ったのも、そのような通俗的な興味を喚起させる目的であることは自明であろう(どうやら、それには失敗しているようだが)。

また、「マスメディア」と大文字で括っても、それらは資本の論理で動いている営利企業だ。視聴者や読者が減り、番組や媒体がなくなることになれば、社員や関係者は路頭にまようことになりかねない。そのためには、消費者を喚起するための方策を必要とされる。紡がれる幾多の「物語」は、営利企業の商品でもあるのだ。

さらにもうひとつ決定的に言えるのは、「物語」にならない言説とはありえないということだ。なかには「マスコミは客観的な報道だけしていればいい」という向きもあるが、そのときに使われる「客観」とは、概して「誰もが納得できるような、透明な視角」といったニュアンスがある。

しかしながら、厳密に言えばそんな「透明な視角」はありえない。だれかがなにかを述べたときには、必ずそれは大なり小なりバイアスを帯びる。それを避けることは不可能だ。「客観」的に思える報道も、マスコミが記者クラブで警察発表を鵜呑みにしているかぎりは警察の恣意性を孕んでいるし、たとえその発表を鵜呑みにせずに、マスコミが独自の取材によって情報を入手し報道したときでも、それらのすべての情報からなにを報道しなにを報道しなかったかは、マスコミの任意によるものだ。

以上を考えてもわかるように、誰もが納得できる「透明な報道」などありえない。これは、「誰もが納得できる言葉」などがありえず、また「誰も傷つけない言葉」もありえないことも意味している。「表現」とは、常に既に、不透明なものなのだ。

以上は、「反マスコミ」的姿勢を素朴に提出する人への論点先取なので、本来的には触れるまでもない前提的な話だ。

それよりもこのような報道において注視すべきは、マスコミ=送り手と消費者(視聴者・読者)=受け手との間で、どのような共犯関係性が成立しているか、ということである。

たとえば、先に挙げたような、マスコミ報道の「ウソ」に噴き上がるような立場の人々──それはしばしば社会運動系の人だったり、マスコミ志望だったがその希望が叶わなかった人々だったりするが──は、非常に特殊かつ少数の存在だと言える(だからと言って無視すべきではないが)。

それよりも圧倒的多数の消費者は、そのような大層な理念など持ち得ずに、報道をカジュアルに見聞きしながら日常生活を送っている。そのような人々にとって、マスコミ報道が「客観」的であるかとか、そこにどのような「演出」が介在しているかとかについては、不問とされている。極言すれば、圧倒的多数の消費者にとっては、報道とは面白ければなんでもいい。

私には、そのようなタイプの友人も複数名いる。身近にそういう人がいないと思う方もいるかもしれないが、もしそうであるならば、きっとあなたがとても知的な世界で生活しているか、友達が少ないだけかのどちらかである。彼ら/彼女らの政治意識はとても低く、マスコミ報道は楽しむためのリソースにしかすぎない。彼ら/彼女らは、「フィギュア萌え族」という造語は面白くなかったのでネタにはしないが、「キモいロリコン」という切り口にはそれなりに反応する。そこで、報道内容の真偽は、まったく吟味されることはない。小林薫容疑者は、バラエティ番組でおどける芸人と大差のないキャラクター=ネタにしか過ぎない。

テレビ番組や芸能人についてのコラムを書き続けてきた故・ナンシー関の一連の仕事は、そのような共犯関係性を前提としたゆえに広く支持されていたものと言える。誤解を恐れずに言えば、彼女が炙り出した共犯関係性とそのエンタテインメントの質は、「マスメディアもバカだが、その報道や番組を観る消費者もバカだ」という前提を孕む、極めてシニカルかつ自虐的な類のものである。80年代以降のマスメディアをめぐる送り手と受け手によって構築される現実は、概してそのような方向に傾いたわけで、それはかなり多くの人も実感として持つところでもあるはずだが、そのような状況下で素朴に「反マスコミ」的姿勢を露わにして噴き上がる人は、残念ながら時代錯誤的だし、それゆえにその言説は説得性を持ちにくい。

話はそれるが、そういえばナンシー関は、長らく『週刊文春』で連載していた。一方、同誌ではナンシー関が登場する以前から、清野徹が「ドッキリTV語録」という連載を続けている。この連載は『テレビにつける薬(ことば):ドッキリTV語録全十年』(1999年/扶桑社)としてまとめられているが、その内容は徹底的に視聴者の立場を貫徹し、「評論家」として高踏的にTV番組を批評する。そこには「TVを観るバカ」としての反省的な視角はうかがえない。このような清野の姿勢は、ナンシーの活躍によって連載枠が縮小するというかたちで隅に追いやられているように、なんにせよ共感可能性・説得性を著しく欠いたものとして認識されている。

かように、マスコミ報道を考えるときには、消費者とその消費者の欲求を満たすべく報道を続けるマスコミ各社の間の共犯関係性を考えなければ、問題は「マスコミ報道に憤る良識派市民」という非常に古典的なフレームに回収され、なにも進展しないままに終わる可能性が高い。それはやはり生産的な道筋を照らすことになるとは言えない。

報道をどのように批判するか

以上は長い前振りでここからが本題だ。なぜ私がこれほどまでに真面目なことを書いているかというと、今回の事件ではその報道をめぐって、ネットで少々過剰に思える反応が見受けられたからだ。具体的には大谷昭宏への批判がそうだ。

前述したように、大谷は「フィギュア萌え族」という造語を新聞やテレビで繰り返し使って今回の事件を語っているが、それ以外にはほとんどオタクバッシングは見られない。大谷に限定されていると言ってもいいほどだ。繰り返しになるが、報道を全体的に眺めると再犯防止策に傾いており、ことさらに加熱したものにはなっていない。

だが、ネットでは大谷の発言がとても注目されている印象がある。もちろん彼の不用意なコメントに早い段階で釘をさす必要もあったとは思うが、容疑者逮捕以降の報道を見るかぎりは、結局大谷の「フィギュア萌え族」という物語は的はずれなものとして終わった印象がある。

しかし、そうした状況であるにもかかわらず、大谷への批判はネットではグルグルと回っている印象を受ける。逆に、大谷を批判しているネットこそが「フィギュア萌え族」という言葉を拡散させてしまっている印象を受ける。つまり、大谷批判を繰り返している人は、かなりの逆効果を示し始めているように見える。

繰り返しになるが、もちろん当初の段階で批判したことの効果はあったかもしれない。ただ、現状は大した問題意識も持たずに「大谷批判ムーヴメント」に乗っているだけの人(=フォロワー)が、大した政治性のないままに騒いでいるような印象も感じる。

当初から大谷批判をしてきた人に対して私が抱く危惧とは、そのような状況に至るリスクを回避する策があまり見られないことだ。「フィギュア萌え族」批判はもちろんすべきだが、実はその批判と同等に講じるべきことは、その批判を見ている第三者(=のちにフォロワーとなる人々)に対してのどのようなプレゼンテーションをするかということだ。これに失敗すると、その批判は意味をなさないどころか、逆効果になってしまうことがある。結果として、「オタクがみずからの既得権益のためにギャーギャー騒いでいるぜ」と第三者に認識されてしまっては、元も子もない。このようなリスクを回避するために必要なのは、現状の冷静な認識をした上でのプレゼンテーションである。

幾度か繰り返してきたように、今回の報道では全体的に再犯防止策が講じられる方向でまとまりつつある。オタクバッシングは宮崎勤事件などと比べるとごく一部にしかすぎず、大谷の発言は影響力の強いテレビで発せられたが、さほど影響を見せていない。少なくとも新聞や雑誌でオタクバッシングはほとんど見られない。評論家の宮崎哲弥も、この事件において「フィギュア」や「萌え」などの表象は短絡的で、再犯防止にとっては逆に解決の糸口を見えなくさせるという趣旨をテレビで発言し、暗に大谷を批判した(関西テレビ『 2時ワクッ!』2015年1月6日放送)。

このような現状のなかで、これからも大谷を批判し続けることは、正直あまり得策だとは思えない。「フィギュア萌え族」という言葉が人口に膾炙するという逆効果を生む可能性が高いからだ。

「物語」は、当初の語り手のもとを簡単に離れてひとり歩きしていく。そしてひとり歩きする過程では、さまざまな人によって新たな物語が付加され、内容を変えることもあ。

そのような流れに抗することための策はケースバイケースだが、私はここまで書いたように、宮崎勤事件の報道との比較も含めた相対化という策を取っている。それがどれほどの功を奏すかはわからないが──。

いや、もちろんネットが日々の生活のなかでの暇つぶしで、盛り上がれればなんでもいい、という人もいるだろう。たとえば、世の中はこれほどまでの韓流ブームなのにもかかわらず2ちゃんねるでは嫌韓言説がいまだに見受けられる。右でも左でも上でも下でも、ネタになればなんでもいい──それがいまのネットの実状だと断定したりはしないが、80年代から90年代のナンシー関の活躍以降の現在をそのように捉えることは、文脈的にさほど困難なことだと思えない。

そのような時代において、なにをどのように批判し、そしてその批判をいかに機能させていくかは、非常に難しいことなのも間違いない。

※1……後にこの犯人である被告は死刑判決が確定し、2013年に刑が執行された。

※2……既に釈放された元受刑者は、服役中も一貫して無罪を訴え続けていた。

※3……この事件については、都市社会の流動化によって引き起こされた他者のまなざしの増大にそのきっかけを見いだす見田宗介「まなざしの地獄」(1979→2008年/河出書房新社)という分析もある。

※4……この団体が現存するかどうかは不明だが、このときに世話人を務めていたのは評論家の大月隆寛。この本は、大月とライターのオバタカズユキによって編まれたものだ。

※5……報道当時は実名だが、現在は刑期を終えて出所している可能性もあるためにイニシャルに留めておく。

※6……「千葉県や山梨県など全国の多数県において、青少年保護の県条例にもとづき、ホラービデオを有害図書に指定する動きがある。これは他罰傾向の一つである。しかし、自責感のない他罰は、その時々に攻撃対象を変えるにすぎない」(野田正彰「想像力を貧しくさせたのは誰なのか:『無罰社会』のなかの宮崎式犯罪」 『朝日ジャーナル』1989年10月6日号所収/朝日新聞社)。

※7……テレビは免許事業なので新聞・出版とはその立場が異なるが、その話はここで敷衍しない。

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