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「30年ぶりに薬師寺保栄と再会したい」と語る元WBCバンタム級王者

林壮一ノンフィクションライター
(写真:REX/アフロ)

 WBOスーパーライト級タイトルマッチが催されたラスベガス、ミケロブ・ウルトラ・アリーナで、元WBCバンタム級チャンピオンのウェイン・マッカラーと再会した。偶然にもプロモーターから指定された記者席が、私の隣だったのだ。

 マッカラーは、現役時代の晩年からプレス席に座るようになっていたので、何度か言葉を交わした覚えがあるが、肩を並べて話すのは初めてだった。

撮影:筆者
撮影:筆者

 開口一番、元チャンピオンは言った。

 「薬師寺保栄は元気かい? 彼は偉大なチャンピオンだった。薬師寺と戦ってから、来年で丸30年になる。その記念に日本を訪れて彼と再会したい。可能なら、マイク・タイソンとロイ・ジョーンズ・ジュニアみたいにエキシビションで戦いたいよ」

撮影:筆者
撮影:筆者

 マッカラーは問わず語りに言葉を続けた。

 「日本はいいところだったなぁ。誰もが親切で、街も奇麗で、ファイトマネーも良かった。57万5000ドル稼げたからね。薬師寺戦の時は名古屋しか行けなかったけれど、もっと色々回ってみたい。僕はソウル五輪で銀メダルを獲得したので韓国にも行っているが、より魅力を感じたのが日本。でも、まだたった1回しか訪れていない。

 ウチの娘は歌手として活動しているんだが、やっぱり日本の文化に触れたいと話している。本気で再訪したい。薬師寺によろしく伝えてよ」

マッカラーと娘
マッカラーと娘写真:REX/アフロ

 ソウルでのマッカラーの戦い振りは、伝説のトレーナー、故エディ・ファッチの目に留まった。五輪後、彼は祖国アイルランドを離れ、ラスベガスに居を構える。ジョー・フレージャー、ケン・ノートン、ラリー・ホームズ、リデック・ボウ等、数々の名チャンプを手掛けたファッチの教えを受けるためだった。

 「エディのトレーナーとしての功績はもちろん称えられるが、人間としても素晴らしかった。常に努力の大切さを説いたが、誰よりも彼が努力家だった。心の底から尊敬していた。

 今でも自宅にエディの写真を飾っているんだ。2001年10月10日に90歳で天に召されたけれど、彼の言葉を忘れることは無い。エディが住んでいたからラスベガスに引っ越してきた。娘もここで生まれたし、もう離れる気はないね。僕は今、アイルランド、英国、アメリカと3枚のパスポートを持っているんだよ」

写真:REX/アフロ

  1970年7月7日に北アイルランドのベルファストで誕生したマッカラーは、7人きょうだいの5番目。父はレンガ職人、母は専業主婦だった。

 「7歳上の長兄と、6歳上の次兄がボクシングをやっていてさ、トロフィーを持ち帰る姿に憧れたんだ。それで自分もやるようになった。ジムに通い始めたのは8歳。最初の試合に出たのは12だったかな。

 プロの世界に入ってから、薬師寺、ホセ・ルイス・ブエノ、ダニエル・サラゴサ、ナジーム・ハメド、エリック・モラレスのトップ選手と戦えたことに誇りを持っている。薬師寺に挑戦した時は、僕が勝ったらリターンマッチをやる契約になっていた。でも、彼は僕とのファイトをラストマッチにしたんだよね。まだ現役を続けられた筈。なぜ引退を決めたのか訊いてみたい。薬師寺のライバルだった辰吉丈一郎のラスベガスでの試合も観戦したよ。戦いたかった。本当に、日本には興味があるんだ」

 マッカラーは、今でもトレーニングを欠かしていない。酒とタバコを愛した母親が早死にしたので、気を付けていると笑った。そして、こう結んだ。

 「日本人選手を育ててみたいね。ハートがあるよね」

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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