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拳を交えはしなかったが、世界最強の男とライバルだった金メダリスト

林壮一ノンフィクションライター
五輪3連覇を果たしたステベンソン(写真:アフロ)

 1月17日は、あのモハメド・アリが生まれた日だった。もし、ご存命なら82歳。「ボクシング・イコール・アリ」と言わんばかりの足跡を残した人だが、今日は、本コーナーで取り上げたことの無い、"アリの対戦しなかったライバル"をご紹介したい。

アリのモチベーションを上げるのに、ステベンソンは相応しい相手だったか
アリのモチベーションを上げるのに、ステベンソンは相応しい相手だったか写真:Shutterstock/アフロ

 アリより10歳若かったテオフィロ・ステベンソンは、キューバ代表のヘビー級選手として、ミュンヘン(1972年)、モントリオール(1976年)、モスクワ(1980年)と3度のオリンピックで、それぞれ金メダルを獲得した。

 アリが本名のカシアス・クレイで五輪金メダリストとなったのは、1960年のローマ大会、ジョー・フレージャーが1964年の東京大会、ジョージ・フォアマンが1968年のメキシコ大会であるから、ステベンソンはバトンを受け取ったことになる。

 ヘビー級の金メダリストはプロでも頂点に立った為、ステベンソンもプロ転向を何度も打診された。だが、キューバの星はあくまでもアマチュアに拘り続けた。

当時のアマチュア大会ではヘッドギアの着用は義務付けられていなかった。だからこそ、プロモーターはより、プロ転向を勧めた。
当時のアマチュア大会ではヘッドギアの着用は義務付けられていなかった。だからこそ、プロモーターはより、プロ転向を勧めた。写真:アフロ

 ステベンソンは、船に砂糖を積み込む仕事に就いていた父親が遊びでスパーリングをしていたジムで、10代の頃から本格的にボクシングを始めた。ほどなく頭角を現し、フィデル・カストロに愛され、期待され、国民的ヒーローとなっていく。

 身長196cm、体重220パウンド(99.79kg)と、ヘビー級のなかでも恵まれた肉体、そして破壊力抜群の右を誇った。

キューバのジムに飾られたステベンソンとカストロの写真
キューバのジムに飾られたステベンソンとカストロの写真写真:ロイター/アフロ

 国際試合でアメリカ合衆国を訪れる度に、ドン・キングを始めとした有名プロモーターから「プロで世界タイトルを目指すべきだ」と口説かれた。東西冷戦中にアリと共産国のスターをぶつければ、莫大な利益を生むと算盤をはじいたのである。実際、ステベンソンには数百万ドルのオファーがあった。特に、アリが3度目のヘビー級王座に就いた1978年のレオン・スピンクス戦後には、ボクシングファンもヒートアップした。

 しかしカストロ政権はキューバ人選手のプロ活動を禁じていた為、アリと対戦するには亡命するしかなかった。

アリが鬼籍に入ったのは、2016年6月3日だった
アリが鬼籍に入ったのは、2016年6月3日だった写真:アフロ

 結局、彼らの対戦は無いまま月日が流れたが、パーキンソン病に苦しむようになってから、アリはステベンソンをキューバに訪ねている。

 2人は私服姿のまま向かい合い、シャドウボクシングをした。一通り、それが済むと抱き合った。

 2012年6月11日(月曜日)、ステベンソンは心臓発作で天に召された。享年60。彼は2003年に、こんな風に語っていた。

 「おカネは必要ありませんでした。なぜなら、私の人生が台無しになるからです。プロボクサーにとって、カネは罠。大金を稼いだとしても、それを失い、困窮して亡くなったボクサーが一体何人いるでしょうか? おカネは常に、他人の手に渡るものです」

 言い得て妙である。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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