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日本ライト級最強の男がリングに復帰<後編>

林壮一ノンフィクションライター
撮影:筆者

 プロキャリア初黒星を喫して帰国した吉野修一郎は、7月末に右肘を手術した。5カ所に内視鏡を入れたのだ。

撮影:筆者
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 「それからは、リハビリです。最初は手がまったく伸びない状態でした。90度も曲がらなかったんです。右手で髪を触ることさえできず、パンパンに腫れ上がっていました。2週間くらいひたすらアイシングをして、その後、電気を流してちょっとずつ曲げていくということを3カ月弱やりましたかね。その間、ロードワークもせずに、一度ボクシングを休みました。

 復帰に向けて、まずは散歩からスタートしました。ジムに顔を出したのは、10月でしたね。サンドバッグ打ちも、当初は触るくらい、寸止めでした。1週間ごとに強度を高めていって、12月くらいから本格的に打てるようになりました。スパーリングを始めたのは3月に入ってからかな。スティーブンソン戦の僕が10なら、今は3くらいです。厳しい状況ですよ。心肺機能も落ちているなぁと感じます」

撮影:筆者
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 筆者が吉野に話を聞いた日、彼は日本スーパーフェザー級5位の神足茂利を相手に6ラウンドのスパーリングをこなした。前述のように、吉野は自身を10段階のうち3だと語っていたが、一発一発のパンチの重さ、バランス、タイミング、ボディブロー、そしてチャンスとなった際に必ず3つ以上のコンビネーションを放つ姿に唸らされた。日本国内のライト級で図抜けた存在であることは、疑い様がなかった。

 「国内の色んな選手から対戦のオファーがきているらしいんですが、もう日本は卒業したと考えています。ライト級の日本人世界チャンピオンは長く出ていませんし、同じ栃木県出身のライト級世界王者誕生になれば、ガッツ石松さん以来ですから、僕が新たな歴史を、という気持ちです」

撮影:筆者
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 スティーブンソン戦の敗北は、ボクサーとしても、人間としても、吉野を一回り大きくした。

 「あの景色を見ましたから、もっともっと本場でやりたいです。日本人に通用しても、“世界”レベルを相手にすれば、そうはいかなかった。ですから、クオリティーの幅を広げなければ」

 今、吉野は米国の舞台で味わったことを課題として汗を流している。

写真:山口 裕朗   中谷正義戦
写真:山口 裕朗   中谷正義戦

 「向こうで試合をして、僕は変わりましたね。日本ではずっと勝っていましたから、それで通用すると感じてしまうじゃないですか。海外で負けを経験したことで、足りなかったものが見えました。その反省点を生かすことで、自分のボクシングに広がりが出たと感じます。スティーブンソン戦で得たものは本当に大きいです」

 吉野は結んだ。

 「次は、新しい吉野修一郎をお見せします!」

撮影:筆者
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 三迫貴志・三迫ジム会長は、再起戦をクリアさせた後、世界ランキングを取り戻すべく、動き始める。まずは、6月17日の後楽園ホールに注目だ。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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