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モハメド・アリが意識せざるを得なかった14歳少年の凄惨な殺され方②

林壮一ノンフィクションライター/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
(写真:ロイター/アフロ)

 エメット・ティルの母、メイミーは、1940年10月14日にルイス・ティルと入籍した。彼女は当時18歳だった。

 ルイスはギャンブルとボクシングの好きな無法者で、翌1941年7月25日に息子エメットが生まれてからは、妻に対する暴力が止まらなくなる。

 ほどなくメイミーは夫と別居し、赤子と共にミシシッピー州アルゴの実家に身を寄せる。ルイスは軍に入隊し、月給22ドルが妻子に届くようになるが、エメットが4歳の時それが止まる。イタリアに配属されていたルイスが女性2人をレイプし、3人目の被害者を殺害した罪で処刑されたのだ。

 実父の人柄を知ってか知らずか、エメット・ティルは腕白少年として育っていく。"ディープサウス"であるミシシッピー州は、白人と有色人種の住居エリアがきっちりと分けられていた。

 述べるまでもないが、この時代のアメリカ合衆国は、ホテルもレストランも公共の水飲み場もトイレも、黒人が白人専用の建物に足を踏み入れることは許されなかった。ディープサウスは特に、カラードへの差別が色濃い地である。

写真:イメージマート

 メイミーは新たな生活を求め、愛息の手を引いてイリノイ州シカゴに引っ越す。ここで新たな伴侶と出会うのだが、エメットが激しいホームシックにかかった為、なるべく時間を見つけて息子をミシシッピー州デルタの親戚宅に送ることにした。エメットは、故郷とシカゴを行ったり来たりする生活を送った。

提供:イメージマート

 1955年8月24日も、エメットはデルタで過ごしていた。数人の仲間と雑貨屋に入り、キャンディーを購入する。同店の経営者は白人だったが、訪れる客はブラックのみだった。

 エメットに応対した店主の妻は、高校の美人コンテストで2度優勝した過去を持つ21歳の白人だった。釣銭を渡した際、エメットがデートを申し込み、彼女に性的興味を示した、腕を掴んだ、口笛を吹いた、等と彼女は法廷で証言したが、後に事実ではないとされている。

 また、この女性は16歳で駆け落ちして高校を中退していることからも分かるように、教養のあるタイプではなかった。

写真:Shutterstock/アフロ

 とはいえ、彼女の言葉を信じた夫とその兄は、エメットを探し出し、連れ去り、徹底的に痛めつける。所謂リンチである。兄は2.7パウンド(1.22kg)のセミオートマティックの銃で頭を滅多打ちにした。夫も似たようなタイプの銃を携帯しており、それを凶器とした。

 そして14歳の少年の頭に向けて鉛をぶち込み、遺体をタラハチ川に放り投げる。

提供:イメージマート

 数日後に発見されたエメットの遺体は、頭部に数か所、銃で撃たれた跡があり、左目は抉られ、片方の耳が削がれていた。人体で最も固いとされる太腿の骨も粉砕されていた。

 それでも、エメット・ティルを殺めた男たちは裁判で無罪となる。

写真:Shutterstock/アフロ

 モハメド・アリに改名する前のカシアス・クレイは、自身より一つ年上のエメット・ティルの死を重く受け止め、語った。

 「自分や弟にも、これと同じことが簡単に起こるってことだな。そういう社会で生きているんだと悟ったよ」

 ボクシング史上、唯一無二の存在であるアリの強靭な精神力は、エメット・ティルの死を、我が事として受け止めたからこそ培われたのかもしれない。

(つづく)

ノンフィクションライター/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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