日本チャンピオンから寿司職人へ 大将のたゆまぬ努力

写真:山口裕朗

 日本ジュニアフェザー級チャンピオンだった岩本弘行(63)が自身の店「鮨処 いわ本」をオープンして、20年が過ぎた。カウンターの中には、ボクサー時代の師、故松本清司トレーナーの写真が額に入れて飾られている。

撮影:著者
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 岩本は1957年2月5日、神奈川県小田原市生まれ。9歳上、7歳上の兄に次ぐ三男坊である。

 中学時代はサッカー、陸上競技の2000メートル走で鳴らした。卒業時に3つの高校から陸上の特待生として勧誘されるが、全てを断り、上京。ヨネクラジムに入門する。

撮影:著者
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 「親にも担任にも校長先生にも、『絶対に高校は行くべきだ。後悔するぞ』と言われたのですが、退路を断ってボクシングに懸けることに決めました。中学の卒業式が3月10日で、5日後に東京に向かったんです」

 15歳でヨネクラジムを後援する宝石会社に就職し、銀やプラチナを加工する作業を担当する。住まいは、4畳半2部屋に6人が寝泊まりする社員寮だった。

 毎朝5時30分からロードワーク。7時から勤務先の車を洗い、午前9時から17時30分まで仕事、18時半からジムワークという生活を送る。

 

 「会社の寮が文京区千石にあり、目白のヨネクラジムまで30分弱かけて通っていました。17歳になるまでは、プロテストを受けられないでしょう。だから丸2年、ひたすら練習だけの日々でした。練習生だった頃は、サンドバッグもスピードボールも触らせてもらえませんでしたね。

 社にはジムメイトが何人も入って来ましたが、地味な仕事なので、皆すぐに辞めちゃうんですよ。半年もてばいい方でした」

 17歳となった1974年6月27日にプロデビュー。ジムの先輩であるWBCジュニアライト級チャンピオン柴田国明が、アントニオ・アマヤを相手にした防衛戦の前座だった。

 「私は予備カードだったんです。TV放送の関係で、セミファイナルが3ラウンドまでに終わらないと、デビュー戦はお預けという話でした。でも、セミファイナルは1ラウンドで終わり、出番が来たんです。会場は超満員の両国国技館でした。

 1発も食わずに2回KO勝ちしたんですよ。アマチュア経験なんか無いのに『どこでやっていたの?』と声を掛けられました」

撮影:著者
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 この年の新人王にエントリーし、準決勝で初黒星を喫する。

 「翌年、全日本新人王になったのですが、ヨネクラジムからは4名も新人王が出たので、なかなか試合を組んでもらえませんでした。ジムの先輩にも日本チャンピオンクラスがゴロゴロいましたから、目立つ存在じゃなかったんですよ」

 17戦目に韓国に遠征し、東洋太平洋チャンピオン及び世界ランカーだった金栄植とノンタイトルマッチでグローブを交える。10回判定負けするが、自信を掴んだ。

 「もし、日本で行われていたら、勝っていたんじゃないかなと感じました。世界ランカーと自分との間に差は無いだろうと。私は日本タイトルを手にするまでに5敗していますが、その度に学び、強くなった気がします」

 1979年9月4日、指名挑戦者として日本ジュニアフェザー級チャンピオン、笠原優に挑む。

撮影:著者
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 「『笠原は前半強い。お前はスタミナがあるから、中盤以降に勝負だ』と話す人が多く、マスコミもそんな予想でした。でも、米倉健司会長と松本先生は『初回から行け!』と。

 アドバイス通りにバンバン行って、第2ラウンドにダウンを奪ったんです。倒し切れず判定勝ちでしたが、チャンピオンになれて、やはり嬉しかったですね」

 この時、岩本は22歳。前年から同棲する恋人の存在があった。早く所帯を持ちたかったが、「プロボクサーなどという安定の無い職の人間に、娘は渡せん!」と、相手の両親から色良い返事は貰えなかった。

 3度目の防衛戦を判定で落とし、王座を失う。

 「今思えば、相手を舐めていたかもしれません。向こうの勢いに呑まれました。この日は、柴田さんの引退式が組まれていたこともあって、ボロクソに言われましたね。遊んでいたんだろうとか、練習不足だとか、酒の飲み過ぎだとか…そんな事は一切無いのに。

 それでデビュー戦からつけていたメモ帳を何度も読み返して初心に戻り、3か月後に同じ相手からベルトを取り戻したんです」

 2度目の日本王座獲得以降、5度の防衛に成功。そして、1982年9月5日、東洋太平洋王者、鄭巡鉉に挑戦する。

 「私は東洋1位でしたが、鄭はモノが違いました。本当に強かったですね。最初のダウンはどんなパンチを食ったのか、今もって分かりません。自分は36戦しましたが、ダウンを経験したのはその試合だけなんです。それも、3回倒されての完敗でした。鄭は2回世界タイトルに挑戦し、共に引き分けていたのですが、これが<世界>なのかと……身をもって味わいました」

 帰国し、3度日本タイトルを防衛するが、1983年11月29日、後のWBAバンタム級チャンピオン、六車卓也に4回TKOで敗れベルトを失う。これがラストマッチとなった。

 「六車はいい選手でしたよ。私が目を切ってしまって、ドクターストップでした。悔しくてね。3カ月後にリターンマッチが出来るという話だったので再起を目指したのですが、ロードワークでダッシュしていた折に転倒し、左の鎖骨を折ってしまった…。それで引退を決めたんです。26歳でした」

 27歳にして愛を育んできた恋人と入籍。引退後も宝石会社に勤務していたが、寿司職人だった次兄の影響もあり、自分の店を持つ夢が大きくなっていく。

撮影:著者
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 「34歳から寿司の修業を始めました。8年間で8店舗移り歩いています。年を食ってから始めた板前ですから、早く物を覚えなければと、ボクシング同様、必死でしたね。ちょっと仕事ぶりがダメだったり、お店の経営が厳しくなると『明日から来なくていい』と言われる世界ですから。

 ボクシング時代のお客さんたちが応援してくれましたし、自分の店を持ちたかった。今でもそうですが、河岸にはボクシング関係者がたくさん働いているんですよ。彼らも皆、励ましてくれてね。仕入れの勉強もさせてもらいました。お客さんを裏切らないように、腕を磨いて来たつもりです」

 東武東上線「大山」駅から徒歩2分の場所に念願の店を開いたのは2000年9月2日のことだ。毎年11月の第2日曜には「松本会」として、松本清司トレーナーの教え子が店に集まり、故人を偲ぶ。

撮影:著者 東京都板橋区大山東町56-10「鮨処  いわ本」の前で
撮影:著者 東京都板橋区大山東町56-10「鮨処 いわ本」の前で

 「お客さんに『また来たい』と思って頂ける味、店を目指しています」

 日本のボクシング関係者のみならず、ルぺ・ピントール(メキシコ)やカオサイ・ギャラクシー(タイ)といった名王者も評判を聞きつけて暖簾を潜った。最後の相手だった六車卓也も、関西から大山にやって来た。

 「ボクシングで築いた人脈が、寿司屋になってからの財産となっています」

 1秒1秒まったく手を抜かずに汗を流して来た岩本弘行の生き様が、彼の握る寿司にも表れている。