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父が語る「NBAプレイヤー 渡邊雄太の足跡」

林壮一ノンフィクションライター
サウスポー、手の長さ、サイドステップが本場で評価されている渡邊雄太(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 世界最高峰のプロバスケットボールリーグNBAに、日本人2人目となる選手が誕生したのは現地時間の10月28日。その彼――渡邊雄太の所属するメンフィス・グリズリーズは、現在、ウエスタン・コンファレンス10位と苦戦を強いられている。

 グリズリーズには、あのアレン・アイバーソンが晩年に在籍していた(2009年)。全盛期のキレを失いながらも、黄色いヘッドバンドをしてボールに食らいついていたアイバーソンの姿が瞼に焼き付いている。

 グリズリーズのユニフォームを着て今季で11年目となる2m16cmのセンター、マルク・ガソールも健在だ。33歳のベテラン、マルク・ガソールはチームの顔として、精神的柱となっている。

 現地時間23日(日)、メンフィス・グリズリーズは107-99でロスアンゼルス・レイカースを下した。ご存知のように、今のレイカースを牽引するのは"KING"レブロン・ジェームズだ。この日も両チーム合わせて最多である22得点を挙げた。KINGと渡邊が同じコートに立つ光景を目にしたかったが、次回以降への持ち越しとなった。

 アメリカ合衆国と日本のバスケットボールには、30年の開きがあると言われる。NBAに心を奪われた人間なら、日本のバスケに熱狂するのは難しい。NBAとはまさに芸術だ。日本のそれとは、技術もパワーもスピードも迫力も、大人と子供どころか、大人と赤子以上の差がある。

 そんな頂へ挑み続けている渡邊雄太は、実に清々しい。ご存知のように、渡邊雄太はジョージワシントン大で腕を磨き、NBAとTwo-Way契約を結んだ。10代で本場、アメリカに渡ったことが正解だった。レベルの低い日本のバスケ界で無駄な時間を過ごしていれば、ここまで辿り着けた筈もない。

 日本のバスケットボールがお寒いことを今更嘆いても仕方が無い。しかし、渡邊雄太の存在は、日本が世界との差を縮めるきっかけとなるかもしれない。

 その渡邊雄太の実父、英幸氏に話を聞いた。英幸氏もまた、スモールフォワードとして熊谷組で9年間プレーしていた。

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 雄太は小学1年でバスケットを始めました。全日本のキャプテンだった家内がミニバスの指導をしていて、幼稚園の頃から体育館に練習を見に行っていたんです。女房に付いて行って、ボールを触って遊んでいるうちに自分もやりたくなったんですね。

 小学校2年か3年くらいの頃、当時BSで放送していたNBAのロスアンゼルス・レイカースやボストン・セルティクスのゲームを見て、コービー・ブライアントに憧れたようです。そこで『僕もあんなふうになりたい。NBAに行きたい』とぽろっと言ったんですよ。

 とはいえ、僕は日本人がNBA選手になれるなんて正直思っていませんでしたし、あれは別世界の、宇宙のスポーツだくらいに感じていました。ただ単に、息子がうまくなりたいと言うから、じゃあと朝練に付き合ったのです。毎朝5時半に起床し、6時から7時までやりましたね。

 その頃、スポーツ少年団のコーチを集めた講習会に出ましてね。『指導者の方々は、小学生プレイヤーが卒団する時、入った時よりもそのスポーツが好きになるように接して下さい』という言葉を耳にし、ハッと思いました。

 小学校時代に雄太がチームや女房から学んだことは、まずバスケットの楽しさです。それから練習の大切さですね。練習が全てだということ。練習しかうまくなる道はないのだと。いくら試合をやっても、練習をしないと向上しません。試合は練習したものを試す場であって、試合にいくら出ても練習をおろそかにするやつは絶対に駄目だと、それは私の口からも伝えました。

 そうそう。こんなエピソードがあります。

 雄太が6年の時、それまで試合に全く出ていなかった3人の4年生が公式戦に出場したんです。経験の無い下級生でしたから、パスを回したらボールを取られるし、シュートを打ってもリングにさえ当たらなかったんですね。その下級生に対して雄太が「何だおまえは」みたいな顔をしたので、私が物凄く怒ったんですよ「この4年生たちがいなければ、人数の関係で、お前は試合にさえ出場できていない! この子がボールを取られたら、なぜおまえがヘルプをしてやらないんだ!! 」って。周囲にいた私の父が一言も声を掛けられなかった程の剣幕だったそうです(笑)。ですが、次の試合で後輩がミスをしても、雄太はお尻をポンポンと叩いて励ましていましたから、チームメイトのありがたさも学べたのかな、と。

 中学時代の雄太は、膝の成長痛に悩まされました。もし勝つことばかり考える強豪中学に行っていたら、無理をして膝が壊れていたのではないかと思います。雄太は身体が極端に細く、膝も悪かったので、ジャンプシュートは膝が痛くなくなってからやればいいと伝えました。高校で伸びたらいいという考えでしたね。

 高校は、尽誠学園高等学校に進学しましたが、雄太のバスケット人生を大きく変えた転機というのは、1年生の終わりにあります。U17の合宿に行った時、たまたま全日本の監督を務められていたトーマス・ウィスマンさんが体育館へやって来て、雄太を見かけたらしいのです。195センチくらいあって、痩せているのでちょっと目立ったのかもしれません。で、非常にボールハンドリングがいいということで、ウィスマンさんが全日本の候補に入れてくれたのです。

 今までテレビで見ていたような全日本のメンバーと共にと練習をし始めた訳ですから、バスケ好きの少年にとってはたまらないわけですよ。一段とモチベーションが上がったんですね。

 その後、ウィスマンさんは全日本の監督を解雇され、カタールに赴任することになったのですが、ずっと雄太を気にしてくれていて、『アメリカの大学へ行くべきだ』『ぜひアメリカへ行ってほしい』『日本でやっていてはダメだ』と、アメリカに詳しい人を紹介してくれました。

 ただ、バスケの意欲はあるでしょうが、『勉強が今のままでは駄目だから、おまえはアメリカに行っても絶対無理だ』という話をしました。すると息子は『お父さん、俺はもう死んだ気で勉強する!』と言ったんです。アメリカの大学は、学業の成績が悪いと試合に出られないですよね。もし、勉強であきらめて、『お父さん、やっぱり勉強に付いていけない』と挫折して帰って来ても、家には入れない。勉強は頑張ればなんとかなる筈だ、という話をして、送り出すことにしました。

 実際、バスケと学業の両立は厳しかったようですが、大好きなバスケをやるための努力は本物でした。親との約束であった「死んだ気で勉強する」というのもやったし、バスケットも一切ぶれることなく、4年間練習をひたすら邁進しました。現地時間の夜中の12時くらいにLINEが来ることもあったので、今どこにいる? と訊くと、今体育館でシャワーを浴びているとの返事だったり。

 確かにNBAデビューを飾りはしましたが、まだスタート地点に立っただけです。NBAにしたら、単に日本人選手が試合の終盤にチョロっと出てきて、フリースローを入れたくらいにしか感じていないでしょう。その程度ですよ。昨日活躍したからといって、今日駄目だったら落とされる世界ですから。グリズリーズの主力であるガソールやマイク・コンリーと絡めるように、更に頑張ってほしいですね。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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