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世界最強だった男 マイク・タイソンを葬った男 最終回

林壮一ノンフィクションライター
Undisputedを証明したルイスとKO負けしたタイソン(写真:ロイター/アフロ)

~2002年6月8日。テネシー州メンフィス、ピラミッド・アリーナ~

 第6ラウンドに入ってもクライマックスは訪れなかった。レノックス・ルイスは、ジャブしか打たない。立っているのがやっとという状態にあるタイソンを見過ぎていた。

 タイソンはスピードの無い大きなパンチを振るっては、チャンピオンに近付こうとした。身長181センチとヘビー級としては極端に小さな体躯ながら、大木をなぎ倒すようにKOの山を築いた彼のボクシングは、もうどこにも残っていない。両目の上と鼻から血を滴らせて、直線的な動きをするタイソンは、愚直なロートルボクサーでしかなかった。

 ハワイでのキャンプ中、タイソンは「今日は気分が乗らない」と、トレーニングを放り出してばかりだったという話が漏れ伝わっていた。無敵を誇った元統一チャンプは、ルイス以上に自分に負けてしまう男に成り下がってしまった。

 7ラウンド残り30秒、ルイスは強烈な右ストレートをヒットし、さらに力を込めた右フックを浴びせた。マウスペースを咥えながらボロボロになってコーナーに帰るタイソンの背は、盛者必衰を語りかけてくる

 第8ラウンド、それでもタイソンは前進し、ワンツー、左ストレートを振った。だが、同じ頭の動きしかしないチャレンジャーのパンチは、簡単に見切られてしまう。

 1分18秒、右アッパー、左アッパーを顎に喰らい、フォローの右ストレートを浴びたタイソンがしゃがみこむようにダウン。4ラウンドの“幻のダウン”と同じようなシーンだったが、今回はレフェリーも手の打ちようが無かった。起き上がり、試合を続行したタイソンは、さらに右フックをヒットされてキャンバスに沈んだ。立ち上がりかけはしたが、片膝を付くのがやっとだった。レフェリーは、カウント・テンを数えた。

 ルイスはついに目指してきたその場所に辿り付いた。しかし、この試合はルイスの強さよりも、タイソンの衰えの目立った一戦だった。1ラウンドに元統一王者の攻撃で腰が引けてしまったルイスは、敢えて言うなら相手の自滅を待ちながら勝利を手にしたのだ。試合終了を告げるゴングはルイスの白星を称えるものではなく、タイソンに向けて無常に鳴る哀しい鐘に聞こえた。

 数分後、勝利者がコールされる。

「ノックアウトタイム、8ラウンド、2分25秒。勝者は、3度ヘビー級王座を獲得した、英国の誇り。統一世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイス!」

 直訳すれば,リングアナウンサーが告げたのはそれだけだったが、「Undisputed Heavyweight Champion of the world」という美しい響きがいつまでも耳に残った。欧米では統一王者を示す場合、「Undisputed」という単語が使われる。「異議の無い」「議論の余地の無い」という意味を持つ言葉だ。

ホリフィールドに勝利を収めた時、ルイスは紛れも無く統一王者となった。彼はその後、指名挑戦者と闘わないことを理由にWBAタイトルを剥奪されたが、タイソンを倒した今こそ「Undisputed」と呼ばれる権利を得たのである。

 タイソンはルイスに歩み寄り、完敗を認めた。勝者の腫れ上がった左目の下に触れ,ルイスの母、バイオレットの頬にキスをして祝福した。そして、その場でリターンマッチを申し込んだ。

 マイクを向けられたルイスは、

「タイソンは19歳で時代を築いたが、オレはワインが熟するように進んで来た。これで、自分が最強のボクサーであることを誰もが認めただろう」

 と語った。その光景を見ながら、ふと近くの席でユニオンジャックを片手に全身で喜びを表して飛び跳ねている英国人ファンが目に止まった。

 声をかけると、彼は言った。

「昨日はワールドカップ(2002日韓大会)で、イングランド代表がアルゼンチンを下した。今日は、ルイスがタイソンに勝った。我々にとって至福の2日間だよ」

 

 顔にペイントを施したその若者に向かって、私は意地の悪い質問を浴びせた。

「どちらの喜びが大きい?」

 

 答えは、聞くまでもなかったが、予期したものと同じであった。

 

「それはやっぱり、サッカーのナショナルチームがアルゼンチンに勝ったことだね」

 そうなのだ。ルイスは、「Undisputed」には違いないが、ファンの魂を奪えはしない。唯一無二のチャンピオンとして、かつてのタイソンの様に熱い視線を浴びることは決してないのだ。36歳という年齢でゴールまで走り抜くには、無理をしないスタイルが必要だったのかもしれない。が、自分の力を最大限に振り絞らなくても世界最強の座を手にできる男に、大衆は酔わない。

 血の滲むような努力を重ねても、ほとんどの人間は、自らの思い描いた場所に辿り付くことなどない。己の限界を知った時、激しい喪失感と虚無感から、生きることを放棄してしまいたくなることさえある。 ルイスはそんな凡百とは違った次元に生きる、稀有な人間なのだ。

 リング上の二人を見詰めながら、勝者と敗者ではなく、ファイターとしてしか生きられないタイソンと、哲学を学びたいと語り、母親との時間を重視するルイスのコントラストを感じた。彼らは共に黒い肌を持ち、自らを守るために拳を握り締めた男だった。ボクシングとの出会いによって辛かった過去を乗り越え、新たな場所へ向おうとするルイスと、衰えながらもリングにしがみ付こうとするタイソン。1 8年前にスパーリングを重ねたライバルは、それぞれのフィナーレを迎えた。

 勝者は母親と喜びを分かち合いながら、敗者は側近に守られながら孤独な影を残して、リングを降りていった。

(3ヵ月間、御愛読ありがとうございました!!)

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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