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弁護士会が取り組もうとしている「加害者家族」支援めぐる動きは歴史的な出来事かもしれない

篠田博之月刊『創』編集長
1995年夏、解体直前のオウム真理教拠点・上九一色村の施設(筆者撮影)

あまり知られていない「加害者家族」という存在

「加害者家族」という存在について改めて考えてみようと思ったきっかけは、2023年9月29日に開催される関東弁護士会連合会主催のシンポジウム「刑事加害者家族の支援について考える」とその後の大会だ。そのシンポジウムのパネリストを務めることになり、もう半年ほど前から主催者側と打ち合わせなどを行ってきた。

 一般市民向けのシンポジウムでなく、弁護士や自治体、マスコミなどを中心にこの問題を考えていこうという趣旨なのだが、この問題に首都圏の弁護士会などが取り組もうとしていることは大きな意味を持つ。ある意味で歴史的な取り組みと言ってもよいかもしれない。

「加害者家族支援」という概念は、まだ日本社会では新しいものだ。被害者ないし被害者家族へのサポートは、当事者たちの訴えを機にかなり進んでいる。裁判にも被害者参加が認められ、秋葉原無差別殺傷事件や相模原事件の裁判では、被害者家族が加藤智大元死刑囚や植松聖死刑囚を法廷で激しく追及した。私は裁判の傍聴は昔からやっているが、そうした光景は、法廷の様相を一変させたと言ってよい。

 それに対して「加害者家族」支援は、そういう概念さえ社会的に認知されてこなかったと思う。「加害者家族」はもちろん、加害者とは違う。場合によっては、実質的に「被害者」であることも少なくない。ところが、「個」の概念が確立せずに、いまだに「家」を中心に物事を考えてしまう日本社会においては、「加害者家族」は加害者と一蓮托生でバッシングの対象になってきた。加害者と加害者家族とは違うという認識さえ浸透しているとは言い難い。

埼玉幼女殺害事件・宮﨑勤元死刑囚の父親の投身自殺

 私が早い時期に取り組んだ事例として挙げられるのは1989年に逮捕された埼玉連続幼女殺害事件の宮﨑勤死刑囚(既に執行)で、彼とは12年間、密に関わった。よく知られているように、事件後、彼の父親は投身自殺を遂げている。あれだけ大きな事件になると、家族としては生きていけない状況に追い込まれる。それを象徴するような出来事だった。昭和から平成への区切り目に起きた事件だが、当時は今よりさらに、加害者家族への社会からの偏見は大きく、家族は生きていくのも困難な状況に追い込まれたはずだ。

 その後、私は宮﨑死刑囚と、死刑執行直前まで手紙をやりとりしていた。死刑確定者とは面会や手紙のやりとりはもちろん禁止されているのだが、仲介してくれたのは彼の母親だった。私は、宮﨑死刑囚は統合失調症に侵されていたと今も思っているが、それゆえこの母親が定期的に拘置所に通って差し入れなどのめんどうをみていなければ、生きていくこともできなかったと思う。本人は妄想に囚われ、両親は偽物で、本物の親は別にいると思い込み、母親を絶えず非難していた。

 息子の死刑が執行された翌々日、母親は私に電話をかけてきて、「勤が長い間お世話になりました」と礼を言った。自分の半生をめちゃくちゃにされながら、それに耐え、息子の世話を続けてきたこの母親には、頭の下がる思いだ。

「加害者家族」支援の幾つかの取り組み

 この10年ほど、「加害者家族」という概念を少しずつ社会に浸透させるきっかけを作ったのは、仙台でWorldOpenHeart(ワールドオープンハート)というNPO法人の理事長を務める阿部恭子さんだ(ホームページは下記)。

http://worldopenheart.com/

 大学院での研究から始まった彼女の取り組みが今日まで継続し成果をあげているのには幾つかの要因がある。まず加害者家族からの相談や支援が全て無料、ボランティアで行われていること、そしてネットで「加害者家族支援」と検索すれば彼女の団体が大きく表示され、電話番号も明記されていること。つまり彼女たちにアクセスするハードルが低いのだ。

 自分の持ち歩いている携帯番号をホームぺージに公開するというのはなかなかできないことだと思うが、非通知の問い合わせ電話には対応しないなど、幾つかルールも決められている。

 阿部さんのインタビューをヤフーニュースに公開したので、興味ある方は下記を参照いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2111c301e10f75448b299f0d1faef47e491657e5

 そしてこの阿部さんたちの動きに触発されて、2018年から「加害者家族」支援に取り組み、「犯罪加害者家族支援センター」を立ちあげているのが山形県弁護士会だ。弁護士会がこの問題に取り組んだという意味ではこの動きも大きかった。

 そして前述したように、今年9月には関東弁護士会連合会が「刑事加害者家族の支援について考える」シンポジウムを開催し、同日行われる大会でこの問題について議論し取り組む姿勢を見せている。私はこれまで多くの加害者家族と関わってきたから、弁護士会がこの問題に取り組むことには大いなる意義を感じている。ただし、では実際に何ができるのかとなると、今後の取り組み次第というのが現実だろう。加害者とともに加害者家族も袋叩きにしてしまう日本社会の風土を変えていくという大きな課題とつながっているだけに、それは簡単なことでないし、一朝一夕に何かが変わるとはいかないかもしれない。

 ちなみに私自身は阿部さんたちとは違い、これまで「加害者家族」支援という意識を持って、そうした家族とつきあってきたわけではない。事件を解明するためには加害者と深くつきあい、動機を明らかにすることが大切だ。しかも私の場合、その事件に10年20年と関わっていくことも珍しくないから、当然、加害者家族とも接点を持つことになる。

 彼らがどういう状況に置かれているかというのは、本当に千差万別で一概にこうだと言えるものではない。だから弁護士会などの取り組みにしても、具体的な対応はあくまでも個々の弁護士にゆだねられるはずだ。しかし、「加害者家族」という概念が社会に共有されていくことの意味は大きいだろう。

「加害者家族」とマスコミ報道

「加害者家族」という概念がなぜこれまで社会に認知されなかったかといえば、マスコミ報道のあり方もそのひとつの要因だろう。

 新聞・テレビなどの事件報道は基本的に警察に依拠して行われる。捜査情報をいかにして早く取って報じるかがスクープ競争の中身になる。それゆえ逮捕された容疑者とは当初から敵対関係になることが多く、容疑者側も最初からマスコミ不信の念を持つケースが多い。

 さらに加害者本人が逮捕されており、その直接取材が難しいために、マスコミはその家族に取材をかけることが多いのだが、これがまさに「加害者家族」にとっては最大の恐怖となる。前述した阿部さんに相談を持ちかける「加害者家族」の多くが、事件当初のマスコミ対応に悩んでいるというのもうなずけるところだ。

 私の編集する月刊『創』(つくる)は記者クラブにも所属しておらず、警察に依拠した事件報道はそもそもできないから、独自のスタンスで加害者やその家族に接することになる。これは大きな違いと言える。

日野不倫殺人事件の北村有紀恵さんと家族

 例えば私は、1993年に起きた日野不倫殺人事件の北村有紀恵さんともう20年以上、面会をしたり手紙のやりとりを続けている。彼女は無期懲役で服役しているのだが、昔は15年と言われたこともあった仮出所までの年数が、今は30年を超え、無期懲役の終身刑化が指摘されている。

 娘が服役してからずっと両親は実家で、彼女が仮出所で帰ってくることを待ち続けてきた。娘の逮捕後、両親の生活も一変した。何千万円という被害者への損害賠償にあてるために財産も手放したし、両親の半生は贖罪に費やされてきた。私は、有紀恵さんに代理人弁護士をつけたいと、父親と一緒に依頼に行った。そうして代理人になっていただいたのが、『創』にも何度も登場している古畑恒雄弁護士だ。古畑弁護士は以前から、無期懲役の終身刑化を批判しており、現在、『創』で獄中手記を連載している吉野雅邦さんの代理人も務めている。

 そんなふうに私は北村有紀さんの家族とも長いつきあいを続けているのだが、これも意識的に「加害者家族」支援を考えてということではなく、困っている関係者に可能な範囲で協力するという関わりだ。

 もう20年以上のつきあいで、実家にも何度も伺っているから、両親とも親しい関係なのだが、私が家族について書いた記事を読んで、これまでNHKやTBSなど多くのメディアが、その家族の思いを放送したいと私に依頼してきた。しかし、父親にそれを話すと「とんでもない」という反応だった。『創』は事件報道においてもマスメディアと一線を画しており、両者は別という判断をされているようだ。

 北村さんとのつきあいももう長いので、私は当然、両親が元気なうちに彼女が仮出所できることを願ってきたが、今年1月、父親は91歳で他界した。91歳といえば天寿全うではあるのだが、娘が帰るまでは生きていなければと生前言い続けた父親を見てきた私にとっては衝撃でもあったし、残念としか言いようがない。

オウム事件「加害者家族」とのつきあい

 さて以下、「加害者家族」の具体的事例を、紹介していこうと考えたのだが、ここでは象徴的なケースとして松本智津夫オウム教団元教祖の家族について取り上げよう。

 松本家三女の松本麗華さんに最初にインタビューしたのは1995年暮れ、彼女が12歳の時だった。その夏、オウム真理教の拠点だった上九一色村の教団施設が解体され、信者たちは市民社会に戻ることを余儀なくされた(この記事冒頭の写真)。各地でオウム信者を受け入れるなという住民運動が起き、信者の住民票不受理など、行政も一体となった排斥の動きが起きた。あまりに凶悪なオウム事件への恐怖と警戒心から、憲法違反もやむをえないという社会的風潮が広がっていた。

 教団で幼少期を過ごした松本家の子どもたちは学校にもきちんと行っていない状況で、教団解体後に就学することになるのだが、それも地元で反対の動きにあうなどした。下記写真は子どもたちが一時期生活していた龍ケ崎市の家だ。四女やその下の弟など、事件当時幼くて何も事情がわからなかったと思うが、その子どもたちも反対運動の対象になっていた。

反対の看板が立ち並ぶ元教祖の子どもたちが住んでいた家(筆者撮影)
反対の看板が立ち並ぶ元教祖の子どもたちが住んでいた家(筆者撮影)

 三女の麗華さんも小学校にも通っていなかったという状況から再出発するのだが、同年代の友だちが欲しいという彼女の思いはかなり強かった。ちなみに彼女は子どもたちの中でも独自の立ち位置で、1995年にインタビューした時には福島に住んでいた。

 彼女にインタビューして驚いたのは、その時点でも四六時中公安警察につきまとわれるという生活を送っていたことだ。12歳の少女が、周囲にいつも公安の影を感じる生活というのは、一般の読者には想像を絶することだろう。その時は彼女が生活していた福島に何度か通ってインタビューし、『創』にロングインタビューを掲載した。

 その後も、いろいろな局面で麗華さんや、その姉の二女にインタビューする機会があった。例えば2000年1月に松本家の長男連れ去り事件というのが起き、二女と三女の麗華さんに逮捕状が出されるという時にも、子どもたちが生活していた茨城県旭村の家を訪れた。麗華さんはちょうど大学受験をめざしていた時期だったが、机に置かれた参考書に書き込みがなされ、「うーん、わからない」などと落書きがされていたのを覚えている。

三女が合格した3大学とも取り消し通知

 彼女が本当にがんばったと思うのは、独学で勉強し、通信制高校で資格を得て、大学受験に挑み、3つの大学に合格したことだ。さしたる目的もないまま大学に進学する学生も多いこの時代に、彼女ほど大変な思いをして合格を勝ち取った人は珍しいのではないだろうか。

 そういう思いで彼女の成長を見てきたから、2004年、父親に死刑判決が出た年に起きた出来事には衝撃を受けた。彼女が合格した3つの大学とも、彼女がオウム真理教元教祖の娘であることをつきとめ、合格を取り消したのだった。当時、私は幾つかの大学で非常勤講師もやっていたのだが、大学のあり方としてこれは到底許せないと思った。

 差別に反対することを理念としてホームページに掲げてもいた和光大学までもがそういう措置をとったことに彼女は傷つき、大学を提訴するのだが、同大学では教授や講師、学生などによって合格取り消しに抗議する運動が学内に広がった。私は学内集会のたびに足を運び、シンポジウムのパネリストも務めた。ちなみに当時、和光大には森達也さんや大塚英志さんら論客が非常勤講師を務めており、一緒に学内シンポのパネリストになった。下記はその時の写真だ。

和光大での学内シンポ(筆者の知人撮影)
和光大での学内シンポ(筆者の知人撮影)

 麗華さんが大学を訴えた裁判もできる限り傍聴して、報告を書いた。2005年6月13日の弁論では、麗華さんが直接、その年の3月まで学長だった三橋修教授を法廷で涙ながらに追及した。

 麗華さんは三橋元学長に向かって「あなたの子どもがもし同じ目にあったらどう思いますか。私だけでなく母も周りの人もみな悲しむんですよ。私だけじゃないんです」と告げながら泣き出し、傍聴人の多くもすすり泣きとなった。私も涙が止まらなかった。

「苦渋の選択」と法廷で証言

 ただ、この時の元学長とのやりとりは、ある意味で「加害者家族」をめぐる深刻な問題を提起してもいた。

 実は麗華さんの合格取り消しを決めた三橋元学長は『差別論ノート』などの著書もあるリベラルな学者で、法廷でも麗華さんにお詫びしながら、「苦渋の選択」だったことを説明した。松本家の三女が入学するとなると、他の学生たちの親がどう受け止めるかも気になるし、警備も必要になるかもしれない。個人として差別反対の立場だが、大学運営の責任者としてはそういう個人の思いと別な判断をせざるをえなかったというわけだ。

 もちろん正規に合格した学生を、その出自を持って取り消すなどあってはならないことだ。しかし、元学長が語った「苦渋の選択」という言葉も、「加害者家族」をめぐる難しい問題を提起していた。日本社会の空気を表現する「世間」という言葉があるが、そういうものから本来は自由であるべき大学にさえも、その空気は重くのしかかっていたわけだ。

 麗華さんはその後、合格取り消しに対する仮処分申請を行った裁判所の決定を受け入れた文教大学に入学した。入学後、大学に混乱が生じたかというと、実はそんなことはなかったというから、取り消しを行った大学の懸念は杞憂だったわけだ。

 ただ、麗華さんに入学後の友人たちの反応がどうだったか聞いて、私は多少複雑な思いも感じた。彼女と同世代の学生は、オウム事件当時はまだ小さくて、事件の詳細をよく覚えていない学生も少なくなかったらしい。あれほど社会を震撼させた事件も10年経つと「風化」の波にさらされるという、それは別の深刻な現実を示していた。

 なお麗華さんが執筆した「『加害者家族』として生きるということ」という手記を下記に公開したので興味ある方は参照いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/1426418d24453b1da71ad5331f7f7b1a3c5626ba

四女は何度も自殺未遂を

 私は麗華さん以外の松本家家族ともつきあいがあり、四女とも一時、一緒に酒を飲みながら話をする関係だった。彼女は事件当時幼くて、自分の境遇を理解できなかったが、物心ついてから事件について情報を得、激しい衝撃を受けたという。そして家族と暮らしていた家を出て、父親についても批判するようになるのだが、バイト先でも身元を知られてクビになるなど「加害者家族」の問題に直面。何度も自殺未遂を繰り返していた。

 父親に対する思いやスタンスは、三女と四女で微妙に異なり、2人は父親の死刑執行後の遺骨問題などで対立した。

 麗華さんは2015年、『止まった時計』という自伝を講談社から出版し、カミングアウトした。表紙に大きく顔写真と実名を掲げたこの本の出版は、周囲を驚かせた。いつまでも名前を隠して生きることを彼女は拒否したわけで、それは勇気ある決断だった。

 ただ、それによって「加害者家族」の苦しみから免れたわけではなく、その後もいろいろな思いを抱えて生きている。

「加害者家族」を考える他の事件も

 他の幾つか大きな事件でも私は加害者家族に接触してきた。大事件でなくとも薬物事件などでは加害者家族は本当に大変だ。

 今でも覚えているが、2010年に田代まさしさんが何度目かの薬物逮捕となったその日の夜、私は彼の妹さん2人とマンションのテレビで逮捕の報道を見ていた。昼間、そのマンションにも家宅捜索が入り、妹さんたちは衝撃を受けていた。テレビを観ている間、妹さんの携帯には心配した知人からひっきりなしに電話がかかってくる。彼女たちは大切な兄の更生を支援しようと大変な努力を続けてきた。それを知っている知人たちは彼女たちが自殺にでも追い込まれないか心配して電話してきたのだろう。そうした電話に対応した後、下の妹さんは「もう死んでしまいたい」と号泣した。

 昼間、マンション入り口には報道陣がおしかけ、なかにはボカシをつけた建物の映像をニュースで流すテレビ局もあった。もちろん妹さんや私たちは裏口から出入りしたのだが、報道陣は妹さんがもし通りかかったらマイクを向けたに違いない。加害者家族にマイクを向けて「今のお気持ちは?」と問いかける報道陣の無神経さは以前から指摘されている通りだ。

 薬物事件や性犯罪のケースでも、私はそういう場面を見てきたが、それについては機会を改めて書くことにしよう。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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