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『週刊朝日』休刊! 編集長「溺れながら息継ぎをするのが精いっぱいだった」

篠田博之月刊『創』編集長
『週刊朝日』6月9日号の表紙(筆者撮影)

凝りに凝った『週刊朝日』最終号の表紙

 5月30日発売の6月9日号で『週刊朝日』は101年間の長い歴史の幕を閉じる。この最終号の表紙は、この間、同誌が続けてきた「お祭りふう」さよなら企画の集大成ともいうべき凝りに凝ったものだ。そもそも表紙が折り返しになっており、裏表紙まで使った大きな写真なのだが、“演出写真”の第一人者、浅田政志さんにお願いして、リハーサルまでやって撮影したという。

 それについて『週刊朝日』渡部薫編集長はこう語っていた。

「表紙に写っているのは、編集部を中心にした人間ですが、いろいろなものに扮して古き良きザラ紙週刊誌の雰囲気を再現しました。ラーメンの出前をとって食べてる人がいたり、いまカメラマンジャケットを着ているカメラマンは少数派ですけれど、わざわざその恰好をしてもらったり、女性がお茶汲みをしてたりとか。昔は社内の風呂に入る人もいたのでケロヨンの風呂桶を用意したり、借金の取り立て屋と情婦に扮した部員もいます。

 編集部に置いてある『週刊朝日』も題字が右から左へ表記されている戦前のものも探し出して配しました。いまはなくなった電車の中吊りも飾っています。『ウォーリーを探せ』のように、『昭和あるある』を見つけて楽しんでもらおうと考えた写真です。リハーサルも何度もしました。

 休刊と同時に『週刊朝日』編集部はなくなるんですが、秋には、『AERA』や書籍部門も全社的にレイアウト変更してフリーアドレスになるそうです。ですから、雑然とした週刊誌編集部、うず高く書類やゲラが積まれているという状態も、もうこれが最後なんですね。休刊にあわせて今年は6月1日に社内が一斉に異動になります」

『週刊朝日』休刊は、101年も続いた雑誌が終わりを迎えるというだけでなく、今の雑誌ジャーナリズムの置かれた深刻な状況を象徴するものとして大きな波紋を投げた。背景に何があったのか、編集部はこの間、どんな誌面を作ってきたのかについて振り返ってみよう。

『週刊朝日』休刊をめぐる様々な事情

『週刊朝日』の休刊が1月19日付朝日新聞紙面で発表された時には衝撃を受けた。ちょうどその日、朝日新聞出版の市村友一社長に「新聞社の徹底研究」という月刊『創』(つくる)3月号の特集でインタビューが予定されていた。

『週刊朝日』については昨年、創刊100周年を迎え、約1年間にわたって周年キャンペーンが大々的に行われた。それが一段落した101年目に休刊というのは唐突すぎるし、同社は書籍部門では大きな利益を上げていたから、なぜこのタイミングで休刊、という驚きがあった。

 ライバル誌の『サンデー毎日』も昨年創刊100周年を迎えており、両誌は戦前からの長い週刊誌の歴史の扉を開いた雑誌だった。『週刊朝日』は、ピーク時には153万部の部数を誇ったが、昨年後半には7万4000部まで落ち込んでいた。『サンデー毎日』は恐らく部数はもっと落ちていると思われる。

 休刊なら『サンデー毎日』が先じゃないかとも言われるが、両誌を取りまく大きな違いは、朝日新聞出版はそのほかに『AERA』というもうひとつの週刊誌を擁していることだ。儲かっている時代なら週刊誌を2誌抱えていることは大きな強みだが、赤字になってしまうと逆に大きな負担となる。週刊誌の場合は、年間億単位の赤字も珍しくはなく、2誌支えていくのは簡単なことではない。

 では歴史も長く、部数も大きい方の『週刊朝日』を休刊させて『AERA』を残すという判断はどうしてなのかといえば、歴史が長いだけに『週刊朝日』の方が読者の高齢化が進んでいたことがひとつ。またいわゆる活版ザラ紙というオーソドックスな週刊誌である『週刊朝日』に比べて後発の『AERA』はビジュアル誌で比較的ブランディングがうまくいき、広告集稿もそれなりに健闘していた。同社のデジタル媒体がAERAdot.という名前であるように、デジタルとの親和性も『AERA』の方が高いという判断もあったのだろう。

実は前社長時代に休刊が検討されていた

 朝日新聞出版の市村社長にインタビューした後、実は同社の前社長・青木康晋さんから連絡をいただいた。『週刊朝日』休刊の報を受けて、そのことについて原稿を書きたいという申し出があったのだ。

 『創』3月号に掲載したその青木さんの記事にはこう書かれていた。

「休刊はもう何年も前、私が朝日新聞出版社長をしていたときに不可避だと考えていた。一昨年6月、後継の市村友一社長への引き継ぎのとき、いの一番に伝えたのがこの件だった。市村さんと、結果的に最後の編集長に任命した渡部薫さんには、つらい役回りを押しつけてしまい、申し訳ないと思っている」

 青木さんとしてはその気持ちを表明しておきたいということだったのだろう。

 確かに市村社長と渡部薫編集長の場合、一昨年から昨年にかけては創刊100周年キャンペーン、そして今年は休刊という歴史的出来事にどう対応するか、難しい役回りを課せられたのは確かだ。特に100年余の歴史を誇った雑誌をどう休刊させるかは、渡部編集長には大きな課題だったに違いない。   

「さよなら企画」を大々的に展開

 その難しい役回りに、渡部編集長は捨て身とも言える取り組みでぶつかった。ひっそりと消えていくのでなく、お祭りのような“さよならキャンペーン”で対応したのだった。

 同誌は「週刊朝日の時代」というワッペンを付けて誌面で次々とメモリアル企画を展開。また2月にユーチューブに「週刊朝日チャンネル」を開設して毎週配信を始めた。第1回配信は「週刊朝日休刊の真相をお話しします」。渡部編集長自らが画面に登場し、週刊誌を続けることがいかに大変かを率直に語っていた。

 圧巻は同誌4月14日号。「朝日歌壇に詠まれた『週刊朝日』休刊」など、休刊へ向けた記事とともに、復活させたかつての名物連載「デキゴトロジー」で「編集長ツブヤキ」と題して、渡部編集長自身がこう書いていた。

「ずるずる下がる発行部数と実売部数、減っていく広告。つるつるの氷壁を為す術なく滑り落ちる夢をよく見た。酒を飲む夜はさらに増えた」

「休刊宣告。焼酎をぐびぐびぐびーっ。風呂で泣き、そして、思った。『全然楽しくない!』忘れるために飲んでいるのに、酒は今夜も私を悲しくさせてるじゃん」

「『最後のお祭り編集長はあなたにしかできない』と、言われたことがある。『アホってことか』と地味にショックだったけれど、そんなものかもなあと思えてきた。お祭り上等!」

「千年後の人たちにも、『週刊朝日』という小粋な雑誌があった、そう語られますように」

6月2日号は表紙が「ブラック・アングル」

 5月5・12日合併号の「編集長後記」ではこう書いていた。「今号から盛大に『さよなら企画』開始です。いいの、週刊朝日だから!」

 雑誌の休刊については最終号にメモリアル特集をというのはよくあるが、こんなふうに何号にもわたって大きく展開する例はあまりなかったと思う。歴史ある雑誌だけに寂しく終わるのでなく、にぎやかにという、これは渡部編集長の意向のようだ。

 ちなみにこの号のトップは「週刊朝日と受験報道の50年史」。続いて重松清さんの「『週刊朝日』を賑わせた文芸企画たち」、連載コラム執筆者カトリーヌあやこさんと山田美保子さんの「休刊直前スペシャル対談」などと続く。

 5月19日号では、かつての人気企画「恨ミシュラン」で取り上げられた店の「その後」を追ったルポを掲載。5月26日号からは、同誌休刊と週刊誌界の実情を探る安田浩一さんの短期連載も始まった。

『週刊朝日』6月2日号の表紙(筆者撮影)
『週刊朝日』6月2日号の表紙(筆者撮影)

 6月2日号は表紙が「ブラック・アングル」、そして前述したように、最終号の5月30日発売6月9日号は、表紙を折り返しにして、編集部の写真を掲載。編集部員や関係者が、いろいろな役回りに扮して往時の編集部を再現するという凝った表紙だった。

 休刊へ向けた「さよなら企画」をここまで徹底してやると、もうあっぱれとしか言いようがない。表紙や大学合格号の話題も相まって実売は急上昇したという。

 こうした取り組みは、同時に、週刊誌が直面している大変な状況をどう考えるのか、という問題提起を業界や読者に行ってもいた。出版界全体にとって、この休刊は他人事ではないのだった。

 さて、休刊へ向けた誌面対応に忙しい渡部編集長を『週刊朝日』編集部に訪ねてインタビューした。以下、その内容を取り上げていこう。

「派手に打ち上げて終わっていく方が…」

――休刊を告げられた後、誌面を含めてどんな展開にしようかというのはいろいろ考えられたのですか。

渡部 どういう誌面にするかは編集部で決めました。何か指示があったわけではないので。

 正直に言えば、休刊になるかもしれないというのは、昨年から私はわかってはいましたが、決まった時はやっぱり落ち込みました。101年間の重みは非常にありますし、読者の方の立場や想いを考えた時に、いつもと変わらず淡々と終わるというやり方もあるとは思いました。 

 それについては、どうかなあといろいろ考えましたが、やっぱり往年の面白い『週刊朝日』というのを派手に打ち上げて終わっていく方がいいのではないかと思いました。

 正式の休刊発表は1月19日でしたが、社内では1週間くらい前から話がありました。デスクにまず話をして、そのあと編集部に話をしてという感じですね。18日の日付で著者やお世話になった方々には、社長と私の名前の連名で手紙を郵送しました。また、その後、可能な限りお会いしてご挨拶をしました。

 一つの文化が終わったという言い方もされますが、確かに週刊誌というメディアの一つの終焉を象徴していると思うんです。紙のこういうメディアをこういう形でお届けするという役目が終わったとも言えるかもしれません。

 でも雑誌ジャーナリズムが消えゆくわけではないし、悲嘆に暮れて悲しんでいるばかりでは良くない、と思うところもあったので、にぎにぎしく終わりに向かっていこうという思いに至りました。

「溺れながら息継ぎをするのが精いっぱいだった」

――固定読者がついている連載については、終了するものと他の媒体に移るものがあるのですね。

渡部 長年読んでいただいていた読者の皆さんには本当に申し訳ないです。

 ミッツ・マングローブさんや古賀茂明さん、春風亭一之輔師匠の連載は、AERAdot.に、司馬遼太郎シリーズは『歴史道』に移り、下山進さんと武田砂鉄さんの連載、大学合格者ランキングは『AERA』に移ります。甲子園別冊や「サザエさん」も『AERA』から出す予定です。すべての連載が社内で継続されなかったのはとても残念です。

 読者の立場に立つという観点から、連載については、他誌でも継続できるようにと模索しました。山藤章二さんから松尾貴史さんに引き継がれた「似顔絵塾」は、7月から『サンデー毎日』で月1回の連載になることが決まりました。

――渡部編集長はこの4月で、就任して3年目でしたね。

渡部 私の個人的な思いですが、編集長は1年目は何をやっているのかわからないという状態で、2年目は苦しいんですけれど、もがいているうちにちょっとずつ糸口みたいなものが見えてきて、3年目でやっと自分のカラーを出すことができるかなあというところですよね。だから今回の休刊は、残念という思いが非常に強いですね。ちょっとずつ手応えを掴みつつあったところでもありました。

 常に赤字なので、溺れながら時々なんとか息継ぎしていくので精いっぱいだったんですけれど、少しずつ溺れない泳ぎ方を会得してきたような気がしていたので。

 例えば連載をテコ入れするとか、「デキゴトロジー」を復刻してみるとか、守り守りでやってきたけれど、もう少し開き直ってやっていってもよかったんだなあと、今回休刊を機に『お祭りだ!』とやっている時にも思いました。

 とにかくなりふり構わずやれることはみんなやるという形でこの間、やったところ、3月くらいから実売は非常に良く推移しています。そういう意味では何とか有終の美は飾れるのかなと思っています。

 今思い返すと、この10年~15年くらいの急激な落ち込みにどうしても我々の意識がついていけてないところもあったんだろうと思います。高コスト体質だったというのはあると思いますね。

――5月休刊を1月19日に発表したのは3月末の契約スタッフの契約更新の問題があったからだと市村社長は言っていましたが、その問題はどうなったのですか?

渡部 一緒に働いてきた業務委託契約記者は13人いましたが、いったん全部契約を切るというのが会社の方針でした。休刊に伴ってその問題が一番辛いです。

 何とか続けて仕事が確保できるようにと、いろいろなところにお願いに上がったんですが、弊社に限らずどこも今は大変なので、力及ばず忸怩たる思いです。

――雑誌の休刊というのは、社員にとっては異動を意味するけど、フリーランスの場合は失業になりかねないわけです。これまでも雑誌休刊に伴うその問題は深刻でしたが、今はどの出版社も厳しいので、大変でしょうね。

『週刊朝日』は101年の歴史を持つだけに、その歴史に伴う重みもあるし、休刊は大変なことだと思う。同業者としてもこの休刊は、いろいろ思うところは多いし、紙の雑誌の置かれた状況を象徴する出来事だと言える。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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