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映画『ケイコ 目を澄ませて』が描いた、耳の聞こえない女性プロボクサーという存在

篠田博之月刊『創』編集長
朝日新聞掲載の映画広告(筆者撮影)

 ここに紹介したのは12月2日の朝日新聞に載った映画『ケイコ 目を澄ませて』の広告だが、いやあこのインパクトには驚いた。いろいろある映画の写真のなかで、これをアップで新聞広告に使うという判断もなかなかだが、何よりも映画の主役の岸井ゆきのさんがそれを了承したことだ。いやむしろ、この写真こそ、この映画にかけた彼女の思いをよく映し出している。岸井さん自身もそう感じたのではないだろうか。彼女の映画にかけた覚悟がとてもよく表れた写真だと思う。

 いや本当は、12月6日にテアトル新宿で行われた特別上映会の後の舞台トークの話から入るつもりで、当初はその写真を掲げようと思ったのだが、この新聞広告のインパクトとそれが象徴するものに感動してそちらを使うことにした。でも12月6日の写真も掲げよう。右端が小笠原恵子さん、その左が岸井ゆきのさんだ。

12月6日にテアトル新宿で行われた特別上映会の後で(筆者撮影)
12月6日にテアトル新宿で行われた特別上映会の後で(筆者撮影)

「岸井さんの目がボクサーの目だ」

 そのイベントには、ゲストとしてボクサーでもあった南海キャンディーズの静ちゃんこと山崎静代さんも駆け付けたのだが(写真左から2人目)、映画を観た感想として「岸井さんの目がボクサーの目になっていた」と語っていた。

 トレーナー役で映画に出演した元ボクサーの松浦慎一郎さん(写真左端)は、これまでいろいろな役者のボクシング指導を行った人だが(今回の映画では出演者でもある)、最初岸井さんは一番ボクシングから遠かったが、練習を重ねてみるみるうちに習得していったので驚いたと語っていた。三宅唱監督も一緒にジムに通ったのだが、岸井さんの役作りにかけた熱意と努力は相当なものだったわけだ。

 岸井さんは、ケイコについてどこに共感したのかと訊かれて、「ケイコは私だし、私がケイコだと、ケイコの目線で物を見ていました」とも語っていた。自宅にいる時も近くの公園で練習をし、ボクシングジムに通ってボクサーになりきろうとしたことなど、役にのめりこんでいった体験も語った。

 トークには途中から、ケイコのモデルとなった聴覚障害の元プロボクサー・小笠原恵子さんも加わった。彼女は映画の感想を訊かれて、手話でこう語った。手話通訳が舞台上にいて、小笠原さんの言葉を会場に伝えた。

「昔の自分を思い出して涙が出ました。私の行動や表情と似ていてすごいなと思いました。字幕がないと内容が分からないので邦画はあまり観ないのですが、初めて邦画を素晴らしいと思いました」

 このトークについては、全編がユーチューブで観られるようになっている。興味ある方はぜひ観ていただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=_Exe5ykszfs

(南キャンしずちゃん「岸井ゆきのさんはボクサーの眼をしている」映画『ケイコ 目を澄ませて』公開直前イベント【トークノーカット】)

 ついでに映画の公式ホームページも紹介しておこう。

https://happinet-phantom.com/keiko-movie/

 映画公開は12月16日からだが、8~9日には全国紙が次々とこの映画を大きく取り上げたり、『サンデー毎日』12月18・25日号の映画評で「本年NO1の傑作」と書かれたりと、盛り上がりを見せている。発売中の雑誌『ユリイカ』12月号は丸ごと三宅唱監督の特集で、これも読みごたえがあるのだが、蓮實重彦さんが三宅監督との対談の中で「『ケイコ 目を澄ませて』の素晴らしさはいくらでも出てくる」と、この映画を高く評価している。

映画『ケイコ 目を澄ませて』(C:2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会)
映画『ケイコ 目を澄ませて』(C:2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会)

 また岸井ゆきのさんや三宅監督のトークの動画などもネットにたくさんアップされているので見てほしい(映画写真のクレジットはスペースの都合で短くしたが正式にはC:2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS)

聴者でない人もいることを意識する

 さて映画『ケイコ 目を澄ませて』は前述した元プロボクサー小笠原恵子さんの著書『負けないで!』(創出版)を原案にしたものだ。編集したのは私だが、小笠原さんの中学時代の教師を訪ねたりと、かなり丁寧な取材を行い、そういう話も本の中に盛り込んだ。

 聴覚障害の子どもが現実の学校生活でどういう状況に置かれているのか、そういうことがこの本を読むとよくわかる。

 その第8章をもとに三宅監督が脚本を書いて劇映画にしたのが『ケイコ 目を澄ませて』だ。ケイコには実際は妹がいるのだが映画では弟がいるという設定になっているなど、あくまでもドキュメンタリーでなく劇映画だ。ただ小笠原さんが「昔の自分を思い出して涙が出た」と自ら語っているように、女性プロボクサーだった彼女の葛藤などがリアルに描かれている。

 映画を制作する過程で三宅監督はボクシングジムに通うなどしたうえに、聴覚障害についても洞察を深めていく。月刊『創』(つくる)12月号のインタビューで監督はこう語っていた。

「聴者の僕にできることは、自分や周囲の多くが聴者であることを何度も自覚すること、そうではない人がいることを意識し続けること、そんな点から一つずつ進める必要があると思っています」「今回もし、この仕事をしていなければ、ボクシングのことも、ろうの方たちのこともあまり知らずにいたと思うんです」

このインタビューは全文をヤフーニュース雑誌で公開しているのでぜひご覧いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c4cdf4afb10a8d0f711724a95baedfe4c71bc7a

映画『ケイコ 目を澄ませて』作りながら自身も変わった  三宅 唱

聴覚障害をテーマに据えた映画のヒット

 2022年は、聴覚障害をテーマに据えた映画やドラマが話題になった。映画『Codaコーダ あいのうた』はアカデミー賞を受賞したが、家族全員が聴覚障害の中で自分だけ聴者として生まれたというコーダという存在について、多くの人が知り、考えるきっかけとなった。日本映画でも『私だけ聴こえる』というコーダをテーマに据えたドキュメンタリー映画が公開された。また大ヒット中のフジテレビ系のドラマ『silent』も聴覚障害を素材にしたものだ。

 私も慣例にならって聴覚障害という表現を使っているが、それを障害と捉えるのはあくまでも聴者の見方であって、実はろう者にも手話を通じて豊かなコミュニケーションが成立していることが、今年ヒットした2本の映画を観るとわかる。

 その意味で『ケイコ 目を澄ませて』や上記2本の映画はいろいろなことに気づかせてくれる。直接的には聴覚障害をテーマにしているのだが、それは聴者である人たちにいろいろなことを考えてほしいと問題提起した映画なのだ。

『ケイコ 目を澄ませて』は劇中に実際のろう者の俳優が談笑するシーンもあるし、映画でも手話にはテロップが表示されるなど、三宅監督の聴覚障害への想いが様々な場面で登場する。公開後は日本語字幕をつけたバリアフリー上映も予定されている。

小笠原さんの家族と観たバリアフリー上映

 11月14日、小笠原さんの母親と妹と渋谷駅で待ち合わせ、試写会に足を運んだ。映画を観るのはそれが3回目だったが、その日はバリアフリー上映が行われたので、ぜひ観てみたいと思った。小笠原さん本人は避けられない用事があってその日は来れなかった。

 終了後、感想を言い合った時に、映画の中で手話の部分は字幕がなかったという話になった。聴覚障害の方が観た場合、手話の部分は字幕が不要だからというわけだ。それ以外は会話だけでなく音声についても「鉄橋を渡る電車の音」などという表示がなされる。

 ちなみにその日同行した恵子さんの母親や妹とも「負けないで!」取材中に知り合って以来のおつきあいだ。長女・恵子さんが聴覚障害だとわかった時、さらに妹もそうだとわかった時には、母親は相当の戸惑いを感じたと思う。映画ではとても優しい母親として描かれているのだが、現実の母親は、子どもたちを気丈に育てた女性で、恵子さんが反抗期の頃には家庭内も壮絶だった。

 『負けないで!』の中の中学時代のエピソードを引用しよう。

《その日は今まで以上に感情が抑えきれず、私はとうとう絶対に言わないと決めていたことを母に口走ってしまった。

「生まれてきたくなかった! こんな人生いやだ!」

 いい終わる間もなく、私の頬に平手が飛んできた。

 目の前で母が泣いていた。母が泣くのを見たのは初めてだった。

母も我慢の限界に来ていたのだろう。ついに、こう叫んだ。

「一緒に飛び降りて死のうか!」

喧嘩で感情が高ぶると、母は早口になり私には口の動きが読めない。

「何? 何を言ってるの? わからない!」

「お前を殺して私も死ぬ!」

 きっと、近所に聞こえるくらいの大声だったに違いない。

 私も抵抗して、大声で叫んだ。

「やだ! 死ねない!」》

 (『負けないで!』第5章「ろう学校と荒れた生活」)

プロボクサー時代の小笠原恵子さん(『負けないで!』より)
プロボクサー時代の小笠原恵子さん(『負けないで!』より)

 こういう壮絶な状況を恵子さん本人はボクサーを目指すことで乗り越えたわけだが、家族もまた大変な状況を超えてきたのだ。

聴覚障害の問題は、聴者の問題でもある

 ちなみに『ケイコ 目を澄ませて』という映画のタイトルはなかなか象徴的な表現なのだが、『負けないで!』にこういう一節があることも紹介しておこう。

《ボクサーは相手の息づかいを聞いて、相手のリズムやスタミナを判断するという。私は、それができない代わりに相手の表情、特に目の動きをよく見て、相手の行動を考える。次は右に動くか、左に動くか。パンチを打とうとしているのか、私のパンチに合わせてカウンターを狙っているのか。予想が外れることもあるけれど、慣れてくると、相手の目の動きで次の一手が読めるようになってくる。》

……(『負けないで!』第1章「プロボクサーになりたい」)

 小笠原家の家族と交流が始まったこの10年の間に、障害者の問題をめぐっては私にもいろいろなことがあった。一番大きなことは、相模原障害者殺傷事件で、その取材を続ける中で様々な人たちと出会った。その事件の記録をまとめた『開けられたパンドラの箱』で紹介した最首悟さんや海老原宏美さんもそうだし、『こんな夜更けにバナナかよ』の作者・渡辺一史さんとは今も一緒に事件の取材を続けている。『Codaコーダ あいのうた』など今年公開された映画にも多くのことを考えさせられた。

 今回の『ケイコ 目を澄ませて』も三宅監督のなかなか深い洞察がいろいろなところに含まれている映画だ。そもそも耳の聞こえない女性がプロボクサーになり、正式に試合にも出場していたという事実そのものが、ある意味では衝撃だ。ぜひ映画を観て、さらに映画のもとになった小笠原さんの本『負けないで!』も読んで、一緒に考えてほしいと思う。

 小笠原恵子さんは、プロボクサーはリタイアしたが、今もボクシングや格闘技の教室を主宰している。自宅には元倉庫を改造した練習場もあり、実は、三宅監督ら映画関係者との最初の顔合わせは、彼女の自宅のそういう場で行われた。映画制作はコロナ禍もあって約3年間かかっており、その間に私や恵子さんは岸井さんらの撮影現場も訪ねたり、いろいろ関わってきた。

小笠原恵子さん自宅の練習場(筆者撮影)
小笠原恵子さん自宅の練習場(筆者撮影)

 岸井さんと恵子さんの初対面は昨年末の初号試写の時だったが、岸井さんも映画がやっと完成したという思いがこみ上げたのか、初対面でふたりとも泣いてしまったという。

 最後に恵子さんの近況を示す写真を紹介しておこう。格闘技と一緒に手話に触れる教室であるところがユニークなのだが、練習の後に、参加者全員が手話のポーズで撮った記念写真だ。

 何を訴えた手話かと思ったら、恵子さんが考えたオリジナル手話で、道場の名前と場所名をアレンジしたのだという。

小笠原恵子さん主催の格闘技&手話教室(恵子さん提供)
小笠原恵子さん主催の格闘技&手話教室(恵子さん提供)

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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