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「妻殺し」判決の講談社元社員の母親が初めて事件について語った!

篠田博之月刊『創』編集長
押収されたままの子ども部屋のドア(筆者撮影)

 妻を殺したという容疑で逮捕され、今年控訴審で有罪判決が出された講談社元編集局次長の朴鐘顕さんの裁判をめぐって、月刊『創』(つくる)は7月号で弁護士や作家の森達也さんなどを含めて座談会を行い、判決に疑問を呈した。

 そして7月7日発売の『創』8月号では第2弾として、被告の母親の独占インタビューを掲載した。息子の逮捕後、週刊誌などの取材攻勢にさらされながらもいっさいマスコミに登場することのなかった母親が、事件について語るのはこれが初めてだ。

 インタビューを終えた後、事件現場となった自宅の階段の手すりや子ども部屋など、実際に見て、その写真も『創』に掲載した。

 調べれば調べるほど、この裁判には疑問を持たざるをえない。ここではその母親のインタビューの主な部分と、事件の経過を振りかえっておこう。関心のある人はぜひ『創』の原文をご覧いただきたい。

 また前号の座談会の内容については、下記記事をご覧いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20210607-00241633/

講談社元社員は本当に妻を殺したのか。最高裁で審理中の事件をめぐる新たな動き

子ども4人がいるのに妻を殺すという動機は?

 朴被告の妻・佳菜子さんが亡くなったのは2016年8月9日未明のことだ。法廷での朴さんの説明によると、生後10カ月の幼児を含む4人の子どもの子育てに追われて精神的に不安定になった妻が寝室で、幼児と一緒に自分も死ぬともみあいになり、朴さんは幼児を抱いて2階の子ども部屋に避難した。ドアを閉めて妻が入れなくした後、しばらくして静かになったと思ったら、階段の手すりに上着をまきつけて妻が首を吊っていたという。

 通報で警察官が駆け付けたが、当初、朴さんは、子どもたちに母親が自殺したと言いたくないと、妻が階段から落ちたことにしてほしいと話したという。しかし、それに警察官は不審の念を抱いたらしい。翌2017年1月10日、妻を殺したという容疑で、夫の朴さんが逮捕された。

 その後、公判前整理手続きを経て、2019年に裁判が始まる。1審の判決は有罪だった。朴さんはすぐに控訴したが、2021年1月に出された2審の判決も有罪だった。審理は最高裁に委ねられ、8月にも上告趣意書が提出される。

 係争中ではあるが、もし朴さんの言うことが本当だとしたら、妻を失った悲しみのうえに、妻殺しの汚名を着せられ、4人の子どもたちも父親が母親を殺したという十字架を一生背負うことになる。事件でもないものが事件にされ、家族がめちゃめちゃにされたということになる。

 だから検察は、自殺でなく他殺だという明白な証拠を明示する義務があるし、裁判所も慎重な審理が必要だ。しかし、これまでのところ裁判には決定的な証拠が提示されておらず、そもそも動機が明らかでない。一部週刊誌は逮捕後、妻が夫のDVに悩んでいたと書いていたが、前号の座談会で弁護士はその報道を事実無根と語っていた。4人目の子どもが産まれたばかりの、子育てが大変な時に妻を殺害してしまうというのは合理的な動機とは考えにくい。1審判決でも「殺害の動機の詳細は明らかではない」と書かれているほどだ。

 それがなぜ今年1月、2審でも有罪判決が出てしまったのか。それについては今後も追求していくが、その前にここで被告の母親のインタビュー内容を紹介しよう。

やっと戻った子どもたちと家族でクリスマスを

《2016年8月9日、息子・鐘顕の妻の佳菜子さんが亡くなったという知らせを受けて、私はすぐに大阪から東京に向かいました。4人の子どもたちのことが心配だったからです。でも息子に連絡がついたら、きょういきなり来ても…ということで、引き返し、翌日上京しました。

 警察署へ直接うかがい、その日は息子と別々に事情聴取を受けました。私は息子のことについて夕方6時過ぎまでいろいろ聴かれました。その後、息子と一緒に警察署を出ましたが、息子の自宅は警察が現場検証をやっていて入れないというので、ホテルに泊まりました。

 翌日は、子どもたちのいる児童相談所に行きました。私が子どもたちのめんどうを見るから引き取りたいと伝えたのですが、会わせてもらえませんでした。最初は警察が息子を疑っていることはわからなかったのですが、息子はその日、講談社に呼ばれ、弁護士さんをつけようということになったのです。

 自宅は捜査のためにブルーシートで覆われ、しばらく入れないということで、私と息子はウィークリーマンションを借りて住むことにしました。6畳1間の部屋にベッドが一つあり、ベッドでは息子が、床に敷いた布団で私が寝る生活が3カ月近く続きました。自宅には、2カ月くらいで立ち入りが可能になったのですが、その後、息子の仕事の合間をみては一緒に片付けに行き、なんだかんだで住めるようになったのは11月頃になってからです。その間、床に敷いた布団からは、息子の様子がよく見えたのですが、おどおどした様子はなく、警察に疑われているようなことをしているはずはないと確信しました。

 やっと子どもたちが帰ってきたのは11月30日でした。Aちゃんはまだしばらく児童相談所にいるとのことでしたが、B君とCちゃんはその日に引き取りました。4番目のD君はまだ小さかったので3人の子たちとは別の施設に預けられていたのですが、D君も帰ってくることになりました。

 Aちゃんは、クリスマスが終わった時に帰ってきました。ようやく家族全員が揃ったので、私たちは改めてクリスマスをお祝いすることにしました。もうクリスマスケーキは売ってないので、息子とAちゃんは丸いケーキを求めてあちこち回り、プレゼントも買ってきました。

 私と息子がウイークリーマンションから家に戻ったのは10月初めでした。布団も押収されているため、私の布団を大阪から送るなどして、何度か大阪と東京を行ったり来たりしました。息子にはその後も事情聴取が続き、1日1回、警察に電話をするようにとも言われていました。

 年末には逮捕されるかもしれないという話もあったようで、息子はこの家も引っ越した方がよいかもしれないとも言っていました。

逮捕された1月10日は大勢の報道陣が押し掛けた

 息子が逮捕されたのは、年が明けた1月10日でした。昼ご飯を食べた後、警察の人がやってきて、息子を車に乗せて連れて行きました。逮捕されるかもしれないという情報があることは知っていましたが、知人に聞いたらそんなはずはないと言う人もいたし、心の準備ができていたわけではなく、私はドキドキして冷静というわけにはいきませんでした。

 1月10日は、朝から報道陣が自宅前に大勢押し掛けてきました。それを見た隣の家の方が、子どもたちの目の前で逮捕されるようなことはあってはいけないと、子どもたちを預かってくださいました。夕方になって子どもたちは戻ってきましたが、まだ報道陣がいたので、隣の人は大きな傘をさして、子どもたちを隠すようにして連れてきてくれました。

 その日から息子は面会もできない状況に置かれ、私が面会できたのは1審の裁判の後でした。法廷では顔を見ることができたし、私自身も証言台に立ったのですが、面会は許可されなかったのです。

 記者が大勢押しかけて一番大変だったのは1月10日でしたが、記者はその後もやってきました。向かいの家の前に立って、この家から誰かが出てこないかとじっと見張っているのですが、自転車も通れないし、車の出し入れも大変でした。だから隣の家の方が、そこに立つのをやめてもらうようにと駐在所にお願いしてくれました。その結果、記者たちは少し先の大通りの方に立つようになりました。息子が勤めていた講談社も記者クラブに申し入れをしてくださったようです。

 記者たちは大阪の家にも来ていたようで、私が大阪に行った時には、『週刊文春』が後をついてきました。取材はいっさい受けないようにと言われていたのですが、記者が「お母さんですか、お姉さんですか」と訊くので、うっかり「母ですが」と言ってしまい、しまったと思いました。そういう受け答えもしないようにと後でアドバイスされ、その後はいっさい応じないことにしました。

 息子の逮捕がニュースになっているのは知っていましたが、報道は見ない方がいいとアドバイスしてくれる人が多かったのでいっさい見ないことにしました。私自身も怖くて見られなかったですが、子どもたちがうっかり見てしまうのも怖いので、テレビのリモコンは隠していました。

子どもたちにはどう説明したのか

 そうはいっても子どもたちは大きくなるにしたがって、学校で友達にお父さんの話を聞くこともあるかもしれないし、情報に触れる機会もあるかもしれない。そこで2審の判決が出た後、息子は子どもたちに手紙を書き、それを私が読み上げました。

「絶対帰れると思っていたのに、今回もだめでした。でもパパは絶対に悪いことをしていません」。そう書いた手紙を子どもたちはじっと聞いていました。5歳になったD君が「警察にも意地悪な人がいるんだね」と感想を言っていました。

 長女のAちゃんはネットで父親のことを見たらしく、昨年、本当なのかと手紙で尋ねたようです。そこで息子は返事を書いて、「パパは絶対にしていません。パパのことを信じてください」と説明していたようです。

 子どもたちがどう受け止めるかについては学校も気を使っていたようです。二女のCちゃんが通っている幼稚園も気を使ってくれて、近くの公園に記者たちが張り込んでいるのを見て、Cちゃんを連れてくる時は裏の入り口から入ってくれれば迎えに行きますからと言ってくれました。

 記者たちが大勢やってきて、近所の方々にもご迷惑をかけたと思いますが、近所の人たちは、私が朝早くゴミ出しをして顔を合わせた時などは「手助けできることがあったら遠慮なく言ってね」と言ってくれました。

 佳菜ちゃんのお父さんも3月に訪ねてこられて、「大変だったね。何か困ったことがあったらすぐに連絡してくれたらいいよ」と言ってくれました。お父さんも今まで息子を見てきて、殺人なんてないだろう、あの子はやってないと思っていると言ってくれています。

「がんばって」と近所の方たちから激励も

 裁判は1審の公判が7回あったのですが、私は第4回で証言台に立ちました。その前の3回は息子の弟が傍聴してくれたのですが、第5回以降は私が毎回傍聴することにしました。2審は毎回傍聴しています。絶対無罪だと思っていたので判決は本当に残念でした。傍聴していると、息子を有罪にするために無理に理論立てしているように感じました。

 佳菜ちゃんが自殺したというのを否定するために、自殺する人間が死ぬ前に手や顔を洗うはずがないと言うのですが、実際には誰に聞いても、自殺する前には汚いところを見せたくないからきれいにして死んでいくと言うんです。そういう普通の人の感覚と裁判所は違うのだろうかと思いました。

 1審の後、息子には3週間か月に1回くらい面会と差し入れをしています。息子は最初は子どもたちを面会に連れてくるのには反対していました。2審で必ず無罪を勝ち取って家に帰るし、子どもたちには面会室のガラス越しの父親の姿など見せたくないと言っていたんです。でも2審も有罪になってしまって、子どもたちには会える時に会っておきたいと言うようになり、私が子どもたちを連れて行きました。上の3人は2回ずつ行き、一番下のD君は小さくてパパの顔を覚えていなかった可能性があるので、パパを知ってもらうために3回連れて行きました。上の子たちは久しぶりに会って、パパやせたねと言っていました。

 長男のB君は仲の良い友達から、ニュースでパパのこと見たけど信じているよ、と言われたと言っていました。そこで私はその友達のお母さんを訪ねて署名用紙を渡し、この子たちが生きていくためにもここに書いてあることを理解してもらいたいとお願いしました。

 署名用紙は、近所の方々ほぼ全員にお渡しし、署名をいただいています。32名もの署名を持ってきてくださった方もいました。多くの人たちが「子どもたちは大丈夫? がんばってください」と言って、署名を集めてくれています。

 4人の子どもたちが生きていくためにも一人でも多くの方に、鐘顕が潔白だとわかってほしい。学校の先生方にも個人面談で署名用紙をお渡ししようと思っています。立場上署名は難しいかもしれませんが、理解だけでもしてもらおうと思います。

 息子が佳菜ちゃんを殺害することなどありえないことを、ぜひ多くの人に知ってほしいと思っています。》

 母親のインタビューは以上だ。『創』8月号に掲載した原文では、もっといろいろなことが語られている。

 最高裁への上告趣意書提出は、当初の6月の予定が8月に延び、今後、最高裁で本格的な審理が行われる。母親や朴さんの友人たちが公正な裁判を求めて始めた署名運動も、広がりつつある。

 事件の真相は何なのだろうか。

 なお署名の呼びかけについては、「朴鐘顕くんを支援する親族、友人たちの会」のホームページをご覧いただきたい。

https://freepak3.wixsite.com/shomei

 月刊「創」8月号については下記を参照いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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