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座間事件と20年前の自殺サイト事件を比べて、この社会が劣化したのではと思わざるを得ない

篠田博之月刊『創』編集長
11月10日付で一斉に実名・顔写真報道

 2017年11月21日、相模原障害者殺傷事件の植松聖被告に接見した。もう3カ月以上、月に何度も接見しているのだが、この何回かは座間市で9人の遺体が見つかった事件をめぐって、植松被告と議論している。彼がこの事件についてどう言っているかについては後述しよう。

その前にまず、座間事件をめぐって何が問題になっているのか書いておきたい。

『女性自身』11月28日号の「『娘の実名報道、写真公開はやめて!』黙殺された被害者9遺族涙の嘆願書」という記事がちょっと話題になっている。座間事件の被害者遺族がマスコミの実名顔写真報道に抗議する嘆願書を送っていたことを報じたものだ。

『女性自身』11月28日号の記事
『女性自身』11月28日号の記事

 問題になったのは11月10日以降、9人の被害者の身元が判明したとして新聞・テレビが一斉に顔写真と名前を公開したことだ。それも新聞によっては写真をずらりと並べる異様な紙面。その後、遺族を含めた反発があったことを受けてか、再び匿名にした新聞もある。匿名報道と実名報道を続ける新聞とに分かれているのだ。

『週刊文春』11月23日号に掲載された緊急アンケート「被害者『実名』『顔写真』報道の賛否」によると「実名・顔写真」報道に反対という人が62%だ。その結果に対して同誌は、津田大介さんや江川紹子さんらの見解を載せている。江川さんや服部孝章・立教大名誉教授らは、実名報道の必要性を強調している。

 ネットなどでは、相模原事件では犠牲者全員が匿名なのに、この事件ではどうして?という意見が多い。でも、むしろ相模原事件の匿名問題があったからこそマスコミは今回、一斉に実名報道に踏みきったというのが実情だろう。というのも、相模原事件の犠牲者全員がいまだに匿名という状況に対しては、疑問を呈する見方が多いからだ。特にマスコミ側にはその匿名のせいで事件の背景に迫ることができなくなっているという声が圧倒的に多いし、障害者団体や被害者家族からもこの匿名には疑問の声が出されている。

 私も相模原事件の犠牲者がいまだに匿名であることにはかなり疑問を感じているのだが、一方で今回の座間事件の実名・顔写真一斉公開のしかたにいささか違和感を覚えたのも事実だ。なかには何年も前の小学校の卒業アルバムの写真が使われている被害者もいる。顔を出すこと自体が自己目的化されているような印象も受けた。

 実名を出すことの必要性については日々の報道の都度考えていけばよいと思うのだが、問題なのは、『女性自身』が原文を公開していた遺族らの嘆願書にあるように、実名かどうかだけでなく「取材報道を遠慮してほしい」という遺族の声があることだろう。

「娘をこれ以上、世間のさらし者にしたくはありません」と書いている遺族もいる。家族としては当然の思いだろう。しかし、報道すること自体は大事なことで、ではどういう報道であるべきなのか。そのことをきちんと議論することが重要だろう。

実名を出さなくても伝えるべき内容は報じられる。また逆にこの間の新聞報道については、実名を報じたためか、被害者がこんなに明るい人柄で皆に愛された人だったという面ばかり強調された印象も受けた。それではなぜ容疑者との接点が生じたのかについて踏み込めていないのだ。  

 逆に例えば『週刊新潮』11月16日号(11月9日発売)など、かなり被害者のプライバシーに踏み込んでいるのだが、この段階では新聞も実名報道に踏みきっていないため、同誌も被害者全員の実名は出さず、顔写真にも目伏せを入れていた。

 現時点で一番問題だと思うのは、その実名匿名含めた報道のあり方について、新聞などが報道する側の考え方を明らかにしていないことだ。実名と顔写真をあれだけ仰々しく公開したのに、それがいつのまにか匿名になっているという場合は、それについてどう考えているのか読者に説明くらいすべきだろう。この議論の背景には、マスコミの取材・報道に対する市民の側の不信感が存在する。「取材報道を遠慮してほしい」という遺族の声もその反映だし、相模原事件で遺族が強く匿名を求めてきたのもそのためだ。

 そうした今回の事件をめぐる状況との関係で気になるのは1998年に起きた自殺サイトをめぐるドクター・キリコ事件だ。自殺サイトを通じて青酸カリを自殺願望者に送っていたとして草壁を名乗った男性が報道対象になった。この事件をめぐっては、私は札幌まで出かけて、その草壁の遺族に詳しい話を聞き、月刊『創』99年8月号に掲載した。98年と言えば和歌山カレー事件が起きた年で、「集団的過熱取材」が大きな社会問題になっていた。

 ここに掲載した写真は、そのドクター・キリコこと、草壁を名乗った男性が、実際に使っていたパソコンだ。実はその草壁も青酸カリを飲んで自殺し、彼が自殺サイトにアクセスしていたパソコンだけが2階の彼の部屋に残されていた。

ドクター・キリコが自殺サイトにアクセスしていたパソコン
ドクター・キリコが自殺サイトにアクセスしていたパソコン

 パソコンからスマホへ、自殺サイトから今回のツイッターへと、道具は変わったのだが、私にはそれ以上に、今回の事件とドクター・キリコ事件を比べてその違いに目を向けざるをえない。この事件をめぐる一番大事なポイントは、若い世代に今の社会や生きづらさを感じて「死にたい」と口にする人たちが多いということだ。その問題を抜きにして座間事件を論じることはできない。

 ドクター・キリコ事件について言えば、草壁は自分の送った青酸カリで実際に自殺する人が出た場合は、自分も死のうと覚悟していた節がある。自殺サイトをめぐるやりとりの中で「死にたい」と言う人たちの間でも、「死」や「命」についてはある種の尊厳というか厳粛な気持ちで語られていた。それに比べて今回の座間事件を見て感じるのは、あまりにも人の死が軽々しく扱われているという印象だ。

 確かにまだ事件はほとんど解明されていないし、一番重要な「動機」が曖昧だ。この段階で安易に事件を方向付けることは慎まねばならない。もしかすると容疑者は裁判で、殺人でなく自殺ほう助だったという主張を行う可能性も十分ある。それがどうなるかでこの事件の装いは根本的に違ってくる。今回の白石容疑者が当初供述したとされる「金目当て」という動機が果たして本当なのか、真相は何なのかによって、この事件はかなり違ったものになるのだ。

 でも真相がまだわからないという前提に立ったとしても、事件の経緯を通じて漂う、人間の命に対する尊厳のなさは覆いがたい印象だ。それは何か、この社会の閉塞感がますます強まり、「死」や「命」への尊厳が希薄になってきていることを表しているような気がしてならない。この20年間、もしかするとこの社会は「劣化」の一途をたどっているのかもしれない。そんな気がするのだ。いろいろな凶悪事件に関わってきた私から見ても、この事件は本当にひどい。そんな印象が拭えないのだ。

 冒頭に書いた、植松被告がこの事件についてどう言っているかということだが、彼とは前回の接見の時からこの事件について話している。その時彼は、若い人たちが「死にたい」と口にして容疑者に接触していったことについて「もったいないですよね」と言った。そのことが気になって、今回接見した時に、植松被告の真意をもう一度聞いてみた。彼はこう語った。

「社会に絶望して自殺というのは本当にもったいない、と思うんです」

 植松被告がそう言うとは思わなかったので、最初聞いた時は意外だった。「君にも命は大切だという気持ちがあるの?」。そう聞き返してしまった。

 世間からは誤解されている面もあるのだが、彼は安楽死すべき命とそうでない命を区別しているのだが、死や命について考えていないわけではない。ただ、尊重すべき命とそうでないと彼が考える、ふたつの命をどんなふうにして線引きできるのか。そこをめぐって私とはもう3カ月間、議論し対立したままだ。

 一応は健常者とされる我々だって、いつ交通事故で障害者になるかわからないし、年齢を経て認知症になるかわからない。そもそも障害者を否定している植松被告自身、精神障害者ではないかと世間からは思われている。彼は精神鑑定で「障害」という言葉を自分につけられたことを気にして、そうでないと言っているのだが、障害者と自分とが画然と異なるわけでなくいつでも変わり得る地続きの存在であることを理解しようとしない。ただ、命の重さという点に関しては、少なくとも自分が重大な行為を行い、死刑になるかもしれないことくらいは理解している。でも座間事件の白石容疑者は、死や命についてどう考えているのか、そのあたりが全く不可解だ。

 相模原事件は極めて衝撃的な事件だったが、座間事件の提起した問題も極めて重たい。遺族の「報道を控えるべき」との声を受けても敢えて報道に取り組むためには、その重たい問題にどう向きっていくのか、報道する側の覚悟や決意を示すことが必要だ。

 『創』99年8月号に掲載したドクター・キリコの母親のインタビューをごく一部だが、ヤフーニュース雑誌にあげたので、読んでみてほしい。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171122-00010000-tsukuru-soci

 もちろん似た側面がある事件として座間事件を考える参考にしてほしいのと、もうひとつは、集団的過熱取材の実態について考えてほしいからだ。今回の被害者遺族も同じようにマスコミ報道に不信感を持っているわけだが、報道にあたる側は「それでも報道はしなければならない」という決意を示すことなしにそれを突破することはできないだろう。

 相模原事件の遺族がいまだに匿名を続けるのは、そのことがまだ十分にできていないからではないか、と報道にあたる人間は、いまいちど謙虚に振り返ってみる必要があるように思う。もちろんそれは2017年9月号から毎号、植松被告の声を掲載している『創』にも問われていることは承知している。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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