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そもそも、なぜ『誤審問題』はこじれるのか?

清水英斗サッカーライター
副審のフラッグ(写真:アフロスポーツ)

「聖域」「守られている」

J1第12節の浦和レッズ対湘南ベルマーレに限らず、大きな誤審が起きると、「審判は聖域化されている」と揶揄する声を聞く。

だが、これは、いささか時代錯誤だろう。近年は『レフェリーブリーフィング』や『Jリーグジャッジ リプレイ』といった会見や番組を通し、審判側の発信が活発になってきた。それによって議論が増え、注目度も高まっている。審判の批判がタブー視されることはなく、むしろ自由に、大量に批判されている。

もちろん、その批判が度を越して誹謗中傷になれば、たしなめられるが、それは何でも一緒だ。間違ったことを言えば、違うと指摘されるのも一緒。しかし、審判の批判そのものがタブーなわけではない。選手や監督のコメントでも、誹謗中傷のレベルまで達していない批判は処分の対象になっていない。『聖域』との指摘は、少なくとも現在は当たらない。

ただし、過去には、審判が聖域化されていたのも確かだ。情報を封鎖し、閉じられた社会を作っていた。

それはなぜか?

まさしく、審判を守るためだ。判定ミスが取り沙汰されることで、審判が誹謗中傷のターゲットになり、日常生活にまで影響が及んでしまう。実際に審判員の家族が、学校でいじめに遭うなど、起きてはならない事件も過去には起きていた。

たしかに誤審は重大。だが、人間である以上、ミスからは逃れられない。悪事を働いたわけでもないのに、家族を巻き込むほどの非人道的な扱いを受けることが、果たして適切なのか。このミスだらけのサッカーという競技において、なぜか審判のミスには、異常なほど不寛容であることが当たり前になっていた。

「守られている」と言うが、この状況で、守らないほうがおかしい。組織が聖域化するには、それだけの理由があるわけだ。

しかし、それにより、審判員たちの真の姿が見えづらくなってしまった。

審判委員会では、誤審をした審判の割当停止、場合によっては降格などの厳しい処分、競争や教育を行っている。しかし、その中身について、たとえば誰がどの程度のペナルティを受け、どういう改善をしてきたのか、そうした内部の情報はあまり出て来なかった。

なぜなら、その情報が個人をさらし者にし、執拗に叩かれ続けることを恐れたからだ。だからこそ、密室に入れて守り、話題が風化するのを待ってきた。そうせざるを得ない事情は理解できる。しかし、それにより、本来は理解を得られるはずの人にまで、不信を抱かれたのも確かだろう。

ところが、昨今は変わった。

ネットメディアやSNSを通じ、ルール上で間違った見方や、事実誤認の情報がイヤというほど溢れるようになり、その影響を無視できなくなった。そこで近年の審判委員会は、自分たちで情報の発信を行い、アグレッシブに理解を求めるように方針を変えている。それは時代に合ったやり方であり、健康的とも言えるだろう。『聖域』からは、すでに脱出している。

当然ながら、かつての『聖域化』は良いことではなかった。時間が経てば経つほど、信頼の修復が困難になるからだ。

だが、そもそも、その聖域化の原因を作ったのは誰か? 事情を思い遣る必要はある。

こじれた関係

“そもそも”は終わりがない。

前回の記事では、エンパシー(共感)の不足と、リスペクトの欠如について書いた。

記事に賛意をいただく一方で、「選手のツイートに問題はあるが、誤審の対策がなく、“そもそも”選手が審判に不信感を抱いているので仕方がない」といった反応もいただいた。それは一理ある。

正しくは「誤審の対策がない」のではなく、「外から見えなかった」「知らなかった」「結果が出るまで時間がかかる」のだが、そうした審判に対する理解不足は、やはり『聖域化』された過去が尾を引いている。

また、選手の審判に対する不信感も同じで、そもそもの理解不足が大きい。審判は国際ルール上、許された範囲で改革を議論し、競争、教育を行っている。そして前回も書いたが、審判も選手と同じく、厳しい環境に置かれた身だ。だが、そうした事実はコメントを読む限り、あまり選手に理解されていない。いちばん近くにいるのに、疎遠だった。長きにわたり、審判が『聖域』にあったことの歪みは、決して小さくない。

この問題、“そもそも”を挙げれば、終わりがない。

今回の湘南対浦和における誤審を取り上げた『Jリーグジャッジ リプレイ』では、原博実氏から、著者の前回記事『エンパシー』と同じような主張が展開された。つまり、明らかに入ったと認識している両チームの様子を見て、審判は違う判断が出来なかったのか、といった趣旨だ。

それに対し、審判委員会副委員長の上川徹氏は、「それだけで決めることはできない。審判員の中に(ゴールと断定できる)確かな情報を持つ人がいなかった」と述べている。勝手な印象を言わせていただくなら、このときの上川氏の表情は、やり切れなく、とても苦々しいものに感じられた。

たしかにエンパシーは大事だが、審判側にも、虫のいいことを言うな、という本音があっても不思議ではない。誰が見てもわかる、全員がそう認識している、といっても、そもそも普段から審判をあざむく言動を見せているのは誰だ、という話だ。

“そもそも”選手は試合中、さんざん審判をだます。明らかなスローインでもマイボールを主張し、誰が見ても明らかなファウルをしたのに、不平、不満を言う。

もちろん、勝負事である以上、それは仕方ない。しかし、審判がうかつに選手の言動を信じられないように、そんな状況を招いたのは他ならぬ選手自身なのに、こんなときだけ…。今回、審判だけが、違う判定に突き進んでしまったのも、“そもそも”をたどれば、正直にプレーしない一部選手の自業自得でもある。

だからこそ、著者はエンパシーに言及しつつも、審判が起こせる行動は、“再協議”に限定した。さすがに、エンパシーだけで重要判定をひっくり返すのは事実上難しい。上川氏が言う通りだ。

どちらにも言い分、本音があると思う。

そもそも不信感があったから仕方がない。いや、それは審判に対する理解が足りないから。

そもそも聖域化していたから知りようがない。それは、危害を及ぼされるリスクがあったから。

そもそも、そもそも…。

これを言い出すと、本当に終わりがない。

ハッキリ言って、審判の問題は、こじれにこじれている。それは長い間、対話をして来なかったせいだが、それはそもそも……いや、もうやめよう。もう、そもそもは要らない。

誰に非があるのか? これは短期的な一つの事象を究明するには、必要なステップかもしれないが、長い時間をかけて培われるエンパシーや信頼関係の不足を、「そもそも誰が悪いのか?」と突き詰めたところで、何も解決しない。

それは10年別居してきた夫婦が、そもそもどちらに非があったのかを議論するようなもの。そんなことに意味はない。やればやるほど、断絶するだけ。それが復縁につながるとは到底考えられない。まったく建設的ではない。

大事なことは、関係を修復する意志があるのかどうか。それにはお互いを理解し、リスペクトすることから始まる。その上で、今の状況がどうなっており、どう改善すればいいのか。その道筋を付けることになる。

その意味で、審判側について言えば、近年は大きな歩みを見せてきた。

『レフェリーブリーフィング』、『Jリーグジャッジ リプレイ』といった会見や番組を通し、自分たちの見方や判定の理由を、積極的に発信するようになった。理解を求めるようになった。今までは審判の割当停止期間を明示することは少なかったが、今回は誤審をした審判に対する処分も明らかにした。

処分内容を伝える記事と、著者のオーサーコメント

組織をオープンにすれば、話題がヒートアップするリスクを抱えるが、審判側はそれを受け入れ、前に進もうとしている。すでに『聖域』からは脱出したのだ。

メディアを通じた発信だけでなく、試合後にはチーム側と意見交換を行う場も設けており、選手や監督の意見が、レフェリングに直接反映される仕組みも整えている。そして情報を出すだけでなく、審判の育成も大きく変わった。10代から経験を積めるようにユース審判制度を作ったり、地方でも審判としてステップアップできるように各地域に審判トレーニングセンターを設けたりと、改革が行われている。

異次元の歩みだ。日本の審判は大きく変わろうとしている。チャレンジしている。

だからこそ、選手側にも協調を見せてほしいのだ。これまでに感じてきた「そもそも」を払拭するのは、簡単ではないだろう。それはもちろんわかる。だが、事情はお互いにあった。批判も怒りも当然だが、それは粗暴な言動ではなく、サッカーを良くする仲間としての叱咤激励にしてほしい。不信と疎遠の歴史にけりを。

筆者が今回、一部選手による発信を問題視したのは、これまで審判の記事を発信し続け、やり尽くしたと感じているからだ。『Jリーグジャッジ リプレイ』のような素晴らしい番組も生まれ、伝わる人にはすでに伝わったと思う。このまま続けても、大きな広がりは期待できない。

やはりサッカーの主役は選手だ。その発信は大きく、影響力は計り知れない。選手のほうから、厳しくも、理解の態度を備えた未来志向の発信があれば、エンパシーは異次元に広がるのではないか。そんなJリーグを見てみたいのだ。

サッカーライター

1979年12月1日生まれ、岐阜県下呂市出身。プレーヤー目線で試合を切り取るサッカーライター。新著『サッカー観戦力 プロでも見落とすワンランク上の視点』『サッカーは監督で決まる リーダーたちの統率術』。既刊は「サッカーDF&GK練習メニュー100」「居酒屋サッカー論」など。現在も週に1回はボールを蹴っており、海外取材に出かけた際には現地の人たちとサッカーを通じて触れ合うのが最大の楽しみとなっている。

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