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森会長発言に象徴される日本の問題と、IOCの「終了」回答の意味

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
理事を務める女性たちは、ジェンダー後進国・日本の灯となるべき存在だが(撮影筆者)

2月3日の会長発言

 東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が2月3日に「女性がたくさんいる会議は時間がかかる」などと発言したと伝えられた。いくつかの新聞報道から概要をまとめると、森氏の発言は報道陣に公開されたオンラインの会議で、競技団体の女性理事の登用に関して出たものだった。まずスポーツ庁が示した指針に沿って「女性理事を40%以上」とする目標について、「これは文科省がうるさく言うんで」と言及。そして「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」。「女性は優れており、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げて言われると、自分も言わないといけないと思うんでしょうね。それでみんな発言される」などと発言したと伝えられている。

 これについて、森氏は翌4日、記者会見を開いて謝罪した。

森会長が会見で謝罪 「女性が…」発言撤回、辞任は否定(朝日新聞2月4日)

 しかし今度ばかりは、言葉の表面に関する謝罪で終わりにできる問題ではないのではないか。今、この発言が国内でも海外でも、大きな波紋となっている。

 日本国内では「あの人はもともと失言癖のある人だから」と、一過性の政局こぼれ話として流そうとする向きがあるかもしれない。とくに日本社会では、この種の発言を寛容に微笑んで受け流すことが「大人」の美徳として称賛されるようだが、日本以外の国では、そのような美徳は共有されないだろう。「私見」と断りを入れたとしても、オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長として評議員会で行った発言となれば、公人がおこなった公的な場での発言として、見識を求められる。オリンピック・パラリンピックが国際社会の関心事であることを考えれば、こうした発言によって日本そのものの品格が見積もられてしまう。

女性巡る森喜朗会長発言、海外に波紋拡大で東京五輪に逆風(SPAIA 2月4日)

 筆者も毎日新聞デジタルとロイター通信のインタビューを受けて急ぎコメントを提供したが、一晩経って、この発言についてきちんと考察してみたいと思った。

五輪憲章に抵触も 「女性たくさん」森氏発言の深刻さ(毎日新聞2月4日)

Tokyo Olympics chief retracts sexist comments, refuses to resign(Reuter. FEBRUARY 4, 2021)

なぜ差別発言なのか

 3日の森発言は、会議をスムーズに手早く進行したいという価値観を前提にしているようである。その観点から見て会議運営にとって困るタイプの、無駄に長い発言というものは、世の中にたしかにあるだろう。その種の発言をする人は男女にかかわりなくいる。そういうタイプの人を「女性」という属性へとステレオタイプ化したことで、この発言は、当人に差別の意図がなかったとしても差別発言となるのである。

 たとえば、会議に毎回遅刻してくるので「困る」人がいたとする。これについて「会議メンバーは遅刻しないで出席してほしい」と述べることは差別には当たらないが、その人がたまたまある人種に属する場合に、「〇〇人のメンバーが増えると遅刻する人が増えて困るので、〇〇人のメンバー数を平等に近づけることはしたくない」と、公人が公式の席で言ったらどうなるか。欧米だったら、社会的に許容されないだろう。

 とくにオリンピック憲章(とくに「オリンピズムの根本精神」の「6」)には、差別を禁止する規定がある。これは選手や観戦者だけではなく、オリンピックの組織運営にかかわる人々すべてについて守られるべき理念である。こうした差別発言はこの根本精神と、根本的に相いれない。

民主的討論の蔑視

 森会長発言は、「女性は優れており、…みんなが発言される」と述べたと報じられているが、そのように議論が活発になることに、何の問題があるのだろうか。むしろ、何かを忖度して黙って案件を通過させてしまう人、議論によって「もむ」というプロセスに寄与しようとしない人が、審議や評議の委員になっていることのほうがおかしい。本来の役割に沿った仕事をしようとしている人々に、まっとうに仕事をされては困ると発言することは、ハラスメントにも該当しうるし、民主的な討論への蔑視ともいえる。

 さらに、発言し議論する姿勢を「困る」と述べた文脈の中で「わきまえ」といった言葉を使っていることは、丁寧な議論をしようとする発言者に対して、けん制の効果を持ってしまう。これは女性でなくても、「忖度せずに議論をしたい」と考えている発言者にとって、発言しにくい心理状態(萎縮効果)を生む。このことの不適切さは、言葉の表面的な言い回しのまずさという意味での「失言」とは本質が異なる。

 とくに日本は、会議に先立って、私的な会食会合でおおよその結論を作ってしまい、会議の正式な席では議論はしない、という会食文化・会議文化がさまざまな場面で見られる。コロナ緊急事態宣言が発出されているにもかかわらず、要人の会食が後を絶たないのもこうした会食文化と無縁ではないだろう。先に「根回し合意」を共有してしまった人々が、会議の席上で発言をする人々を、「もう結論は決まっているのだから余計な議論に時間を使いたくない(そこをわきまえてほしいのだが…)」と笑いながら眺めている図は、民主主義の名とは相いれないアンフェアな構図である。この構図を見て、日本という国に尊敬の念を抱く国はまずないだろう。

 オリンピック・パラリンピック組織委員会は国会ではないし、国民の選挙によって選ばれる組織でもないが、だからこそ、民意を外れて為政者の自己満足としての《国威の誇示》にならないよう、さまざまな声を聞きながら進めることが必要である。曲がりなりにも民主主義の名に値する社会を作ろうとするのであれば、そこに所属するメンバーの発言権は平等に保障しなければならない。

 議論を尽くそうとする人々を軽蔑する国で、「自己統治」はおこなえない。となると、開催の是非が議論されているオリンピック・パラリンピックも、民意をくみ取った上での「国としての意志」とは言い難い、一部の人々の自己満足であるようにしか見えなくなってしまう。国際社会から見たとき、このことも、深刻な不信感と失望を招くだろう。

日本が直面する課題への軽視

 女性の理事40%を目標とするJOCの「ガバナンスコード」は、女性の社会参加を公正なレベルに引き上げるために定められた目標値である。「文科省がうるさくいう」のは、その必要性を理解できない人々がいるからである。

 多くの国がこうした努力を重ねて、ジェンダー・ギャップを克服してきた中で、日本は年々取り残され、ジェンダー・ギャップ値では先進国で最下位という状況が続いている。日本がこれ以上、この問題にかんする意識の低さを露呈しつづけていたら、本当に世界の諸国から相手にされなくなっていくだろう。

 「優れている」から増えると困る、という発想は、一昨年、日本の医科大で起きた入学試験での点数操作と通じる発想である。私大であれば、選ぶ側にもそういう選り好みの自由があるのでは、という議論もあり得たが、国の公共の文化行事の運営にかかわる人選となると、そうした私的な選好を認める余地はない。

 女性への偏見は、「女性は能力・適性において劣るので、お荷物だ」というものと、「女性は優秀だから進出してこられるとうるさくて困る」というものに大別される。森発言は本質的に後者なのだが、それが、会議を手早く処理する必要性から見ると「困る」という「劣等型」の語りへと変形されているところにも、さらなる問題がある。これでは、劣等型の偏見を克服するべく生涯をかけて努力をしてきた女性たちの人生の意味を、笑いとともに踏みにじることにならないだろうか。

オリンピックの精神を再確認する必要

 本稿を書いている最中、この件について、国際オリンピック委員会(IOC)の広報担当者が「この問題は終了と考えている」と答えたとの報道に接した。IOC広報担当者が朝日新聞に対し、「ジェンダーの平等はIOCの根本原則で、将来を見据えた五輪ムーブメントの長期計画、アジェンダ2020でも重要な柱に据えてきた」としたうえで、「森会長は発言について謝罪した。これでIOCはこの問題は終了と考えている」と回答したという。

IOC「森会長は謝罪した。この問題は終了と考える」(朝日新聞デジタル 2月4日20時15分)

 この「終了」は、森氏の発言に伴う引責辞任問題について、IOCは干渉しない、という結論が出たという意味の、IOCにとっての「終了」であって、ジェンダーの平等に向けた課題が「終了」したことを意味するものではないし、日本のオリンピック・パラリンピック大会組織委員会がこの課題を免除されたことを意味するのでもない。むしろ、「終了」の前置きとして、「ジェンダーの平等はIOCの根本原則」であること、「将来を見据えた五輪ムーブメントの長期計画、アジェンダ2020でも重要な柱」であることが確認・念押しされていることのほうが重要である。

 また、今回の会長発言がオリンピック憲章に宣言されているオリンピックの精神に反することは、先に見た。オリンピック史やスポーツ文化史の専門家も、そこを指摘している。

森会長の発言「五輪憲章の根本原則に違反」 専門家指摘(朝日新聞デジタル2月4日)

 IOCは、「森発言に合わせてオリンピック憲章を改訂する」とは一言も言っていない。したがって、IOCのいう「終了」は、「日本のオリンピック・パラリンピックがオリンピックの精神に反する価値観によって運営されていても問題はない」、という「お墨付き」を意味しているわけでもない。

 また、この「終了」は、この件についての国内外の議論を終了せよ、ということを意味するものではない。「終了した」というのは、IOCとしてはこれ以上この件に関知しない、という話であって、オリンピックに関心を寄せる人々や団体が意見表明をすることは自由である。

 日本にはこの種の公人発言を抑制する法律はないので、ここに法的責任が発生するわけではない。民主主義の社会の中では、そこは社会の判断にゆだねられている。では、日本の社会の中では、どういう視点と議論が必要だろうか。

 言葉の表面に対する謝罪に、たいした意味はない。それよりも、問題は価値観の転換ができるかどうかである。オリンピック開催国として、オリンピックの精神を学び、確認し、共有する必要がある。また、組織運営のトップ陣には、《偏見を捨てて議論を尽くすこと》を実現する方向に、組織運営の思考と空気を転換してもらう必要がある。私たちは、開催国の市民として、それが実現するのかどうかを見守っていかなくてはならない。

 今後、その換気がどうしてもできないとなれば、やはりその空気を差配しているトップの人々に交代してもらう必要が出てくるのではないか。

(2月6日、若干の誤字修正とともに、文が長く過ぎて読みにくい表現を若干修正しました。筆者)

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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