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「消してはいけない火」は今どこにあるのだろう ――アーティスト支援とオリンピック聖火

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
聖火の公開展示は中止となったが大切に保管されているという。(写真:アフロ)

東京都がアーティスト支援策の具体的調整に

東京都が、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、活動の場を減らしているアーティストへの支援策を検討しているという報道が14日にあった。15日に公表される補正予算案に計上されることになるようだ。都がインターネットで配信する動画を制作してもらい、対価を支払う方針だという。

都がアーティスト支援へ  コロナで活動減、救済予算 共同通信社 2020/4/14 掲載

支援策の規模と中身については正式発表を待ちたいが、それを待つ間の予習として、これまでの経緯からいくつかの留意点をまとめておきたい。

新型コロナウイルス感染拡大を受け、東京オリンピック・パラリンピックをはじめとする文化・スポーツイベントの中止や延期が相次いできた。4月7日の「緊急事態宣言」発出以降は、さらに音楽や演劇など舞台活動を行うアーティストが活動できなくなっている。自粛を求めることは、アーティストたちの生活・生存を脅かすことになるため、何らかの支援が必要であることが当事者からも識者からも指摘され続けていた。

これを受けて、去る3月28日、文化庁が宮田亮平長官の名義で「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と題したメッセージを公開していた。

文化庁、長官名義でメッセージも具体的な補償については触れず 美術手帖3/28配信

ここに「日本の文化芸術の灯を消してはなりません」という言葉、「これまで以上に文化芸術への支援を行っていきたい」という言葉はあったが、具体的な支援策や補償についての言及はなかった。

突発的な災害が起きて、今、緊急にとりあえず「持ちこたえてほしい」とメッセージを発する場面ならば、これでもよい。しかし、すでに様々な実損が明らかになり、ドイツやイギリス、アメリカで具体的な補償が始まっている(あるいは少なくとも決まっている)という段階で、この抽象的メッセージでは、「具体的支援はしません」と突き放す言葉に見えても仕方がない。この失望感を払しょくすることは、日本の文化芸術だけでなく、経済にとっても、今緊急に必要な「休業要請」や「自粛要請」を実効的に行うためにも、必要なことである。

こうしたニーズについて、たとえば、日本文化政策学会と文化経済学会の有志会員が文化庁に政策提言を提出するなど、識者による動きも出てきた。

文化庁に緊急提言。日本文化政策学会有志ら、フリーランスの報酬補填や感染鎮静後の対策などまとめる(美術手帖 2020.4.10配信)

オリンピック・パラリンピックの「聖火」は今どこに

正式発表を待つまでの予習として、東京オリンピック・パラリンピックに関連するする話題も見ておこう。

オリンピックの象徴である聖火も、「消してはならないもの」として大切にされている。

「オリンピック・パラリンピック」はスポーツの祭典だが、そこには必ず文化的なイベントを盛り込むことが決まっており、「文化芸術基本法」の関心対象でもある。スポーツ全般を管轄する法律としては、「スポーツ基本法」(1961年制定の「スポーツ振興法」が2011年に改正・改名となったもの)があるが、オリンピックを代表とするスポーツ文化が「文化芸術」としての価値を持つことから、2017年の「文化芸術基本法」改正の重要な関心事だったことを、文化庁が明言している。

文化庁公式サイト「文化芸術基本法」

この東京オリンピック・パラリンピックも、新型コロナウイルス感染拡大防止のために延期となり、これに伴い聖火リレーも延期された。

ランタンに入った聖火 「Tokyo2020」公式サイト公開写真
ランタンに入った聖火 「Tokyo2020」公式サイト公開写真

東京2020大会開催延期に伴う東京2020オリンピック聖火リレーの対応について(公式サイト2020年3月27日 掲載) 

「2020年3月24日(火曜日)、国際オリンピック委員会(IOC)と東京2020組織委員会は、東京2020大会の延期を発表しました。

これに伴い、3月26日(木曜日)から予定されていた東京2020オリンピック聖火リレーは、スタートせずに今後の対応を検討することとなりました。」

これに伴う各種イベントも、「実施見送り」となった。

オリンピック聖火リレー関連企画・イベント実施見送りのお知らせ(公式サイト3月30日掲載)

その2日後、2020年4月1日(水)には、聖火リレーのスタート地となっている福島県ナショナルトレーニングセンターJヴィレッジで、聖火の展示が始まった。「聖火を灯したランタンが、布村幸彦東京2020組織委員会副事務総長から野地誠福島県文化スポーツ局長に手渡された」という。

手渡される聖火 「Tokyo2020」公式サイト公開写真
手渡される聖火 「Tokyo2020」公式サイト公開写真

この件は新聞でも報道された。(有料記事ではあるが、見出しだけでも要点は伝わるだろう。)

絶対に消してはいけない「聖火」 気が遠くなる厳重保管とコスト 東京オリンピック1年延期 (毎日新聞2020年4月6日)

記事によると、この聖火をランタンの中で1年間管理するためのコストは、燃料費だけで年間100万円を超えるかもしれないという。ここに当然、保管・警備の人件費がかかる(人件費は記事中では明らかにされていない)。そこを勘定に入れると、「気が遠くなる」手間と経費がかかることになるようだ。

その後、4月8日以降、この聖火展示は中止されている。今後の聖火の展示については「現時点で未定」という。

(上記公式サイトの上記ページに掲載あり。4月7日更新)

公開は中止、展示は終了、ということだが、火のほうは、この会場の保管室で、先の記事の通りの方法で、消えることのないように厳重に保管され続けるとのことである。

シンボルの政治は何のため

法学的には、国や自治体が行うイベントは、原則として国や自治体の裁量に任されることになり、聖火の管理方法や予算の使い方は、法学が口出しをすることではない。しかし同時に憲法は、政治過程にとって必要なルールを定めている法なので、政治的作用を発するような事柄について、望ましい方向と憂慮すべき方向とを腑分けしておくことは、憲法の関心事となる。

オリンピック・パラリンピックが一定の政治的作用を持つことは、否定できないことだろう。それ自体は、良いこととも悪いこととも言えない。良い方向にも悪い方向にも行く可能性がある。その中で、人々のマインドをまとめ、海外からも尊敬を受けようとする局面は、「シンボルの政治」と言うべき局面である。これも、それ自体は、良いものとも悪いものともなりうる。

「英国王のスピーチ」という2010年のイギリス映画がある。これは世界中で高い評価を受けている。第二次世界大戦開戦の時のイギリス国王ジョージ6世(現在のエリザベス女王2世)は吃音に悩んでいたが、国王に即位したからには「象徴」の役務として、国民に向けたスピーチができなくてはならない。ナチス・ドイツとの戦いは不安に満ちたものだったが、ジョージ6世が自らのハンディキャップに打ち勝って国民に試練の克服を呼びかけるスピーチをやり抜いたことで、国民の心を落ち着かせる役割を果たすことができた、という物語である(これは有名な史実なので、ネタバレは許容されるだろう)。ここには、「シンボルの政治」のあり方が、見事に描かれている。

本稿では、日本の象徴天皇制については言及しないことにするが、こうした「シンボル=象徴」を使った政治は、歴史上、至るところで行われてきた。エジプトのピラミッド建設や、古代エジプトの大図書館、古代ギリシャの神殿やオリンピック競技、古代ローマの競技場、そして人気を博した漫画・映画の「テルマエ・ロマエ」に登場する大浴場なども、為政者の力や知性や気前の良さを庶民に知らせ人心を掌握するために作られた「シンボル」だったと言うことができる。

現代では、「オリンピック」や「芸術祭」、海外でいまだに見られる「軍事パレード」などが、「シンボルの政治」に属する。「実戦で使ったらこの世の終わり」だから「使えない」とわかっていながら「抑止力」として保有される核兵器なども、使うべき実弾としてではなく「シンボルの政治戦略」として使われていると言えるだろう。また、「オリンピック」と「芸術」がナチス・ドイツによって政治利用されたことは、世界中が反省の対象とする重大な出来事となっている。現在の「オリンピック憲章」で、オリンピックが国家間の競争として行われてはならず、参加者個人の参加を本旨とする(国は支援する立場にとどまる)ことを確認しているのも、その反省に基づいてのことである。芸術祭において「芸術の自由」が尊重されるのも、そうした世界的反省によるものである。

もっと毒のない良性のものとしては、「くまモン」が良い例だろう。熊本の震災の後、熊本のイメージキャラクター「くまモン」が、募金呼びかけに大きな役割を果たしている。

(こうした「シンボルの政治」については、以下の論説で論じている。志田陽子「シンボルをめぐる政治と憲法」法学セミナー、2016年7月号;志田陽子「女子差別撤廃の課題とシンボルをめぐる法理論」日本女性法律家協会会報55号(2017年6月発行))

文化庁長官のメッセージは、「英国王のスピーチ」のような役割を、日本社会に対して果たし得たか。

これには、No、と言わざるを得ない。先に触れたとおり、舞台芸術や音楽芸術などの関係者が今、生活の危機に瀕していることは誰の目にも明らかである。具体的な支援策を早急に打ち出さなくては、関係者の失望感を払しょくすることはできない。

そして、オリンピックの聖火を「絶対に消してはいけない」、ということもまた一種の「シンボルの政治」と言えるが、これも、実際のアーティスト支援が行われることを前提として初めて、意味を持つ。

この火が、「日本は、イベント中止や営業自粛で痛手を被っているスポーツ関係者や文化芸術関係者を決して放置しない、文化の火を消すことは絶対にしない」というメッセージを伝える「シンボル」であるかぎりにおいて、この「気が遠くなる」コストは意味を持つ。もしも、今、財政への決定権を握っている政府要人が、今日明日の生活に困ることがわかっている人々の声を黙殺して「自粛」を要請し、自分たちの名誉・実績のためにそのシンボルを「絶対に」大事にするのだとしたら、それはむしろ虚しい無駄遣いにしか見えない。そんな火は消して、その経費を今、少しでも生活に困っている人々に回して、オリンピック・パラリンピックが再開となったときにまた、先ほどの写真に写った要人の立ち合いのもとに、火を起こせばすむことである。

支援の中身は、芸術支援型か、広報型か

冒頭に紹介した共同通信の配信記事や、これを受けた東京新聞の報道では、東京都が行う支援の内容は、「都がインターネットで配信する動画を制作してもらい、対価を支払う」との見込みが語られている。一方、「アーティストが動画を配信する機会を提供して活動を支援」と報じている紙もある。

アーティスト支援へ 東京都、医療従事者宿泊補助も 産経新聞 2020.4.14掲載

この違いは大きく、「芸術の自由」を確保した上での活動支援か、自治体広報の仕事に対してアーティストの技能を提供してもらう「広報」型の公共事業になるのかについて、公式発表を待ちたい。

広報と芸術支援の違いについては、以下の記事で、詳しく、的確にまとめられているので、そちらを参照してほしい。

江川紹子「「公」の広報、芸術支援、そして表現の自由を考える~憲法学者の志田陽子さんに聞く」(Yahoo!個人2019/12/3(火) 掲載)

東京都の取り組みが「芸術支援」型ではない「広報」型であったとしても、自治体独自の取り組みには限界があるので、いちがいに見識不足と言うことはできないだろう。しかしやはりこれでは、規模としてよりも発想として、足りないのではないか。今、国レベルで「芸術支援」の枠組みを共有する必要がある。先に見た文化庁(長官名)のメッセージにある、「文化芸術への支援を行っていきたい」という言葉は、ここでこそ、意味を発揮すべきである。

なぜなら、首相をはじめとする内閣閣僚はその認識を持っていないように見えるので、文化庁や、支援の必要性を理解している議員が、認識を促さなくてはならない局面だと思われるのである。その認識不足と海外で行われている支援策との比較については、以下の論説で詳しく論じられている。

藤田孝典「安倍首相「日本は世界で最も手厚い休業補償」 緊急時のウソは本当にやめてください」(Yahoo!個人 4月14日掲載)

政府はすでに、文化の効用をわかっていて、利用している。ツイッター上で、外出自粛を呼びかける首相メッセージに、星野源の弾き語り動画が使用されているが、ここで政府は、文化芸術が社会へのメッセージ効果を持ち、政策推進に大きな役割を果たしうること、つまり「シンボルの政治」の効果を持つことを理解しているわけである。この動画使用は本人の許諾なしに行われたことが伝えられているが、アーティストの作品を許諾なく利用しておいて、生活に困窮しながら自粛に協力しているアーティストに支援をしないというのは、アンフェアな関係に見える。

文化芸術は実生活・実体経済にとっては「二の次」に回してよい贅沢品だ、という考えは、前世紀までのものである。今の日本は、少なくとも「知財立国」「文化芸術立国」「クールジャパン」を謳いだして以来、文化芸術を重要な経済分野と見て注力してきた。筆者自身は、文化芸術を経済の僕(しもべ)と位置付けてもっぱら投資の対象と見る成り行きは本質を見誤っていると考えてきた立場ではあるが、しかし現実として、文化芸術を絶やしてしまえば、日本経済が全体として大きな打撃を受けることは間違いない。《経済か、文化芸術か》、ではなく、文化芸術を支えることが経済を回し、支えることに直結しているのである。

地上の星へのまなざし

中島みゆきの「地上の星」という歌がある。歌詞の中に、「名だたるものを追って…人は空ばかり見てる」という言葉がある。真に見るに値する「星」は、今、地上にいるはずなのだが、それは今どこにいるのだろうか、と燕に向かって問いかける歌である。

燕からの答えは、容易にはわからないはずだ。何十年、何百年とかかることもある。ストラヴィンスキーの「春の祭典」は公表当時、大失敗作として観衆からブーイングを受けた。ゴヤの戦争画は、描かれてから200年以上経った今、評価されている。だから、《名だたるもの》としての評価が誰にでもわかるオリンピックや、政府広報として役立つかどうかという尺度とは別のところにある「自由」と「支援」も、アートには同時に必要なのである。

本稿では「芸術支援」の話に的を絞ったため、他にも支援の必要な領域や、支援から除外するべきではない領域については取り上げる余裕がなかったが、消してはならない火は、地上の、至る所にある。

国や自治体がそれをきちんと見ている、ということを象徴するメッセージとしてのみ、「聖火」への気遣いとコストは、意味を持つ。

都から公式の発表があったら、その内容について改めて考察したい。

※追記 この記事を公開した後の4月15日、以下の記事に接しました。4月7日に閣議決定された補正予算案に関する記事です。

政府の補正予算案、文化関係で注目すべきポイントとは?

文化芸術に特化した政策予算ではありませんが、「文化芸術の特殊性に考慮」した内容が盛り込まれている、との内容です。

この内容への考察、および、東京都の支援策が東京都から公表されたらそれへの考察は、稿を改めて行いたいと思いますが、まずは本稿はこの4月7日補正予算案の上記内容を把握しないまま書かれたものであることを注記させていただきます。(4月15日 記)

本稿は、令和2年度科研費採択研究「アメリカにおける映画をめぐる文化現象と憲法:映画検閲から文化芸術助成まで」の成果の一部です。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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