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「公」の広報、芸術支援、そして表現の自由を考える~憲法学者の志田陽子さんに聞く

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
文化芸術基本法を所管する文化庁だが……(写真:西村尚己/アフロ)

 この夏から秋にかけて、公的機関の芸術支援と広報活動が渾然一体となって「表現の自由」が議論される場面がいくつもあった。そのいくつかを挙げると――

 河村たかし・名古屋市長は、あいちトリエンナーレ(以下「あいトリ」)の企画展「表現の不自由展・その後」で、慰安婦を象徴する少女像が展示されたことについて、「愛知県や名古屋市が『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる」などとして、企画展の中止を求めた。そのうえで、国が「あいトリ」に内定していた補助金の不交付を決めたことについても同調。「(名古屋市も)国と共同歩調を取りたい」とも述べた。

 文化庁所管の独立行政法人・日本芸術文化振興会は、映画「宮本から君へ」に麻薬取締法違反で有罪判決を受けたピエール瀧さんが出演していることを問題視。「公益性の観点」から内定していた助成金交付を取り消した。

 最近は、人生の最終ステージで意思が表明できない状態に陥った時の治療やケアについて、前もって家族や医療・介護関係者と話し合っておくアドバンス・ケア・プランニング(愛称「人生会議」)を呼びかける厚生労働省のポスターが、「がん患者や遺族の気持ちへの配慮がない」などとする苦情を受けて、公表が中止となった。それに対し、「表現の自由」を訴え、苦情を申し立てた側を「クレーマー」と呼んで批判する声が飛び交った。

 公的機関のキャンペーンを巡っては、つい最近、日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボキャンペーンの献血ポスターが炎上し、やはり批判派と「表現の自由」派の応酬があったばかりだ。

 芸術支援と広報――公的機関のこの2つの活動と「表現の自由」の関係について、この分野に詳しい憲法学者の志田陽子・武蔵美術大学教授に聞いた。

志田陽子・武蔵野美術大学教授
志田陽子・武蔵野美術大学教授

公的機関の表現の自由と市民の反論の自由

――公的機関の広報とはどういうものでしょうか。

「政府が自らの活動を国民に知ってもらったり、麻薬撲滅キャンペーンとか『ヘイトスピーチは許さない』などの啓発を政府や自治体が公の立場から出す言論、国や自治体の活動を知ってもらうため、あるいは国や自治体の魅力を知ってもらうために行う表現、これが政府広報になるわけです。その内容に法的な制約はありませんが、一般人の表現の自由とはちょっと違う。学者によって論じ方は異なりますが、公の職責に基づいて国民・住民に知らせるもの、ということになります。たとえば、今は法律に基づいて禁じられている麻薬の使用に関して、国民はそれに反論する自由はあるけれど、政府の広報ではできない。

 ただ、内容をどのように効果的に伝えるかは、表現主体である公的機関に任されています。その点では自由なのですが、これが国民・住民から見て感心できないものであったり、公の言論としては不適切なものだと思われたりした場合、国民・住民が『おかしい』と言う自由も当然あります」

――ただ、それが行き過ぎると……

「『あいトリ』に対して『私はこの作品が嫌い』という苦情を申し立てることは言論の自由として認められる。だけど、企画展を中止しないと職員が精神的に参ってしまうほどの電凸は、表現の自由で守られるべきものを超えています。『嫌い』という抗議の表現が、他の表現をやめさせる権力性を持つことがあってはならない。電凸は、その線引きを超えていたと思います」

あいちトリエンナーレで人気だったウーゴ・ロンディノーネの作品
あいちトリエンナーレで人気だったウーゴ・ロンディノーネの作品

――献血ポスターに対しては「環境セクハラ」などという批判が起きる一方で、逆にその批判をした人たちに対する非難も展開されました。

「自分にとっては、こういう絵を見せられると不愉快になり、献血に対して健全な関心を持てなくなる、という人が、それを表明するのは自由です。ただ、それに反論するのも自由です。そして、こうした声を受け止めてどうするかは、ポスター作った赤十字社の自由。批判はあっても、ポスターを肯定的に受け止めている人もいるし、漫画好きの人たちに献血への協力を求めるためにいいではないか、と考えるのはありうることです。一方、不快に思っている人が献血協力者である可能性もあり、その人たちを失うことのデメリットを考えて、(ポスターを)やめるというのもありえます。どうするかは赤十字社の判断に委ねられ、法律で決められているわけではありません。

話題になった日赤の献血ポスター
話題になった日赤の献血ポスター

 法律的には唯一の例外が、広報がヘイトの呼びかけになってしまった場合です。日本ではヘイトスピーチ解消法によって、公の機関はヘイトスピーチの解消に努めていこうと呼びかけているので、それに該当するものを公がやっていたら、それはやめなければならないと言えると思います」

広報の表現主体が中止を判断した場合

お蔵入りとなった最高裁の映画

――批判ではなく、自ら問題が生じた、として取り下げる場合もありますね。それを、表現の自由との関係で考えたらいいでしょう。

「2009年に裁判員制度が始まった時に、最高裁が制度への理解を広めるための映画作品を作りました。『教育用に学生に見せて欲しい』ということDVDが大学にも送られてきました。1人の女性がたまたま裁判員に選ばれて、素人ながら一生懸命関わって、自分も成長した、といういいストーリーでした。

 ところが、その主演女優さんが、DVDが配られた直後に、覚せい剤所持で逮捕されてしまったんですね。その後、最高裁から『問題が起きたため、先に配ったDVDは学生への啓発用には使用しないようにお願いします』という趣旨の手紙が来ました。広報用にふさわしくない、と最高裁は判断したんですね」

最高裁が裁判員制度について広めるために作ったがお蔵入りになった映画『審理』
最高裁が裁判員制度について広めるために作ったがお蔵入りになった映画『審理』

――お蔵入りを決めた、と。

「大学に、この映画の監督さんに入れ込んでいる学生がいました。監督さんはガンで早くに亡くなって、この映画が最後の作品になったそうです。学生から『監督の不祥事ではないのに、これでお蔵入りになるのはあまりにも忍びない。大学で上映して下さい。みんなで見たいです』という要望書をもらったので、補講という形で学生に見せました。

 映画監督さんのことを考えれば、お蔵入りは人情としては気の毒です。ただ、この場合は発言主体は最高裁で、監督さんは広報のために依頼された立場。事情があって発言主体が不適切と判断したのであれば、残念だけど監督さんとしてはそれに従わざるをえない。内輪で見るだけならいいでしょうが、この方の作品として一般の映画館で公開したい、と思っても、それは無理でしょう。

 最高裁の判断が良かったか悪かったかはさておいて、この作品は最高裁の広報であって、発言の主体は最高裁ですから、最高裁が中止する権利はある。これに監督さんや俳優さんが、芸術の自由で対抗することはできません。

 これは、一般の広告も同じことですね。自動車でも化粧品でも、広告主が広告代理店に依頼して、素敵な広告ができた。と思ったら、出演俳優に問題が起きてイメージに合わなくなったからやめよう、ということはあることです」

炎上した自治体PR動画

――この場合は、最高裁の自主的な判断でしたが、抗議を受けて公的機関が公開を中止する、という場合もありますね。

「数年前、養殖うなぎを生産している九州の自治体が、ふるさと納税のPRで作ったCMが問題になりました。男性ナレーターの『僕』が、スクール水着を着た若い女性と出会い、「養って」と言われて大事に育てる、という物語の動画です。女性はどうやら「うなぎの精」らしいのですが、そういうややこしいシチュエーションを知らない人がパッと見ると、援助交際を呼びかけているようにも見えてしまうし、とりわけジェンダー問題に関心のある人からは相当な批判が起き、炎上しました。

「養って」のセリフなどで批判された志布志市制作の動画より
「養って」のセリフなどで批判された志布志市制作の動画より

――大事に育てた「うな子」を最後は蒲焼きにしちゃう、というのも、なんだかギョッとしました。

 これは、自治体が削除しました。イメージアップのためにやったのに逆効果となり、広報として失敗だと判断して取り下げたわけですね。そのPR動画を請け負った代理店や美術面で協力する監督が、芸術の自由から『取り下げないでくれ』と言えるかというと、それは言えない」

芸術助成の場合はどうか

――そこは広報作品の芸術作品と違うところですね。

「そうです。一方、映画『宮本から君へ』の問題はどうでしょうか。映画監督には何の問題もなく、助成金申請時の手続きにも何の問題もなかった。それなのに、後から1人の俳優が薬物の所持で有罪となったことで助成金が取り消しになってしまいました。

 文部科学省が所管する芸術文化振興会は、この映画の助成をすると『国が薬物を容認しているかのような誤ったメッセージを与える恐れがあると判断した』と説明しました。さきほどの最高裁の映画のような広報作品ならそういう判断は是認できますが、この映画は、政府の広報作品ではありません。芸文振は、専門家による審査で、この作品の芸術性を認めて助成を決めました。助成中止の理由は、芸術助成と広報を混同しています。しかも、この件では、後からルールを変更していて、事後法の禁止にも触れる、という問題があります」

映画「宮本から君へ」のホームページより
映画「宮本から君へ」のホームページより

――「あいトリ」についての河村名古屋市長の発言も、芸文振の言い分と同じ論法です。これも広報と芸術支援を混同していますね。

「そうです。そのうえ河村市長は、『あいトリ』実行委員会の副委員長という芸術祭を支える立場なのに、それを邪魔する表現をしている。これはもう論外ですね。彼のような立場ではなく、一般の公務員であれば、私人として政策として反対のことを言った場合には、法的責任を問うべきではないと思いますが」

「あいトリ」の「表現の不自由展・その後」で抗議の対象になった少女像
「あいトリ」の「表現の不自由展・その後」で抗議の対象になった少女像

――広報活動と混同しているから、公的機関がわりと躊躇なく芸術活動に介入してしまったりすることが起きる。

「10月に兵庫県相生市の美術展に書家が出展した作品について、主催者の教育委員会が『市民の共感を得にくい』などとして、差し替えを求めていたケースも、関係者が芸術への助成と広報を混同していたために起きた可能性がありますね。この2つを、文化事業の関係者がはっきり区別しておく必要があります」

芸術助成には根拠となる法律がある

――一般の人が、政府に批判的な表現については「公の金に頼らず自分の金でやれ」などと言うのも、この2つを混同している面があるように思います。

芸術に対する公的支援の根拠は、文化芸術基本法です。国や地方自治体は、ここに掲げられた基本理念に基づいた施策を推進することが責務とされています。この法律では、『文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ』行うよう謳っています。なので、行政は金は出しても個々の作品等に口は出さないのが原則で、助成は公正である必要があります。政策担当者や行政担当者の好き嫌いや思想信条、人間関係によって選ばれるような私物化を防ぐことが大事です。そのため、個々の助成対象は専門家による審査で、もっぱら芸術性による評価で選ぶなどの工夫がされます」

広報に苦情が申し立てられた時

――広報活動に話を戻しますが、苦情が申し立てられた時の公的機関の対応も考えないといけないですね。

「その場合、公の側は、どういう意図でやったのかを説明する『説明責任』は果たす必要があります。苦情を受けたらすぐ取り下げなければいけない、ということはなくて、意図をきちんと説明して理解してもらおうとする努力をする。それで解消できることもあるでしょう。

 けれども、苦情を受けてよく考えたら、確かに傷ついている人がいることに、公の側が気づいて、それを取り下げてやり直す、ということもできる。政府や自治体が、住民や市民の意向に敏感であるのはいいことです。選挙によって選ばれた政治家なども、マジョリティ側の人が多いので、マイノリティの思いに気づかずに表現をしていることは、いくらでもあるでしょうから。苦情によって、自分たちの上から目線に気づかされ、その気づきによって認識が変わり、その結果、これはまずいと分かって取り下げる、というのは、あっていい

 ただ私は、問題が起きた時に、自治体など公的機関がすぐに取り下げて一件落着にしてしがちなのは、ちょっと残念な気がします」

――どういう点が?

「自治体なら自治体なりにPRしたいことがあって出したわけですね。そこに信念があるなら、『こういうことなんです』と1度は説明を社会に発して欲しいと思います。逆に言うと、議論になった時に、「私たちは、こういうコンセプトで、こういうことを知って欲しくてこのようにしました」と説明できる作品を出して欲しいのです。

 自治体など公的機関が、「YouTubeでウケそうなものを作って」と広告代理店などに丸投げにしてはいないでしょうか。代理店はマーケティングが得意ですから、ウケそうなもの、話題になりそうなものを作ります。確かに人目を引きつけ、話題になるものができたんだけど、それがジェンダー的によくない、ということもあります。安易にアイキャッチに訴えるのはリスクを伴います。それでも、自治体など公的機関が自身の責任で見て、趣旨に納得して出していれば、クレームが来た時に説明できるはずなんですね。

 丸投げしちゃったけど、クレームが来たので、とりあえずやめておこう。そんな対応にならないよう、クレームが来た時にきちっと説明ができる程度には、制作過程でコミットして、そのうえで公開して欲しい」

厚労省の「人生会議」ポスターは

厚労省が配布を停止した「人生会議」のポスター
厚労省が配布を停止した「人生会議」のポスター

――厚労省の「人生会議」ポスターは、動画なども含めて4070万円の予算で同省が吉本興業に一括委託したとのことで、その金額や政府と吉本の関係が話題になりましたが、これも2つの苦情ですぐに停止しました。あれを病院などに張り出すのは私もどうかと思いますが、あれほどインパクトがないと訴える力はない、という人もいます。すでに作っちゃったものでもあり、学校など、死について身近に考えることが少ない若い人たちがいる場に張るとか、活用の仕方もあるのでは、という気もします。そういう議論もないままにお蔵入りとなるのはどうか……。

「心配なのが、広報と芸術支援が混同されがちな中、クレームが来ると反射的に取り下げちゃう体質ができてしまっていて、芸術支援にも反射的に中止するという対応が繰り返されてしまっているんじゃないか、という点です。

 文化芸術基本法という法的根拠ができ、この20年で文化行政というものが確立し、文化芸術支援は行政の大事な1分野になりました。文化の分かる方が自治体行政にもいなくてはならず、『クレームが来たから辞めよう』ではなくて、可能な限り文化芸術を支える方向で仕事をする。そういう公務員がもっと多くなる必要がある。せっかくいい法律があるのに、十分活用しきれていないのはとても残念なことです。

 クレームがあった時には、苦情を申し立てた側としっかり話し合いをする。そのうえで取り下げる場合もあるでしょうが、取り下げずに、新たに説明を加える、というやり方もあるでしょう。いろんな解決の仕方がある。クレームは、それを申し立てた側と行政の側との対話のチャンスととらえて欲しい

「説明して」が「やめろ」の言い換えに

――そうなれば、どちらにとってもプラスになる。

「ただ、そう簡単にはいかないんですね。私がかつて、ある講演会で今のようなことを提案したら、こう言われました。

『それは理想論。実際の公務員は「説明して下さい」と言われたら、ダメ出しが出た、と受け取るんです』。

 特に議員さんから『これについて説明して下さい』と言われたら、公務員はみな『お叱りが来ると緊張して固まっちゃう』と。対話どころじゃなく、『中止しろ』という趣旨だと受け止める、と言うんですね。

 説明の要求や問い合わせが『やめろ』の言い換えになっている風潮があるとすれば、それこそが問題なんじゃないか。むしろ説明の場があるなら、どんどん説明しようという風に、矜持を持って芸術支援に当たって欲しい

「鈍感力」が必要

――議員の側も、問い合わせや説明を求めることが中止を求める圧力として働くことを知っていてやっているのでは?「政治の圧力」と批判されても、「いや、問い合わせだだけだ」と逃げられる便利さもあるし…。ウィーンで日墺国交150年を記念した美術展で、日本大使館が公認を取り消したという話も、ネットで誰かが騒ぎ出し、それを国会議員が「問い合わせた」そうで…。

ウィーンの展覧会で物議をかもした動画の一部。作者の会田誠さんが自身のサイトで演説の全文を公開した
ウィーンの展覧会で物議をかもした動画の一部。作者の会田誠さんが自身のサイトで演説の全文を公開した

「そういう時に、空気を読まず、あえて無神経になる覚悟も必要ではないでしょうか。『お尋ね』があれば、『お尋ねがあったのでお答えします。こういう意図です』と説明する。そういうある種の『鈍感力』。私も『どういうおつもりですか?』と問われれば、非難されているな、と感じるけれど、そこを『こういうつもりです』と答える図太さが日本社会には必要だと思います。

 『空気の検閲』という本がありますが、そうならないように、あえてあっけらかんと鈍感でいる空気を作らないと。せめて言論人、特に大学人はそうする社会的責務があると思うのですが、残念ながら、大学も今の文科省の補助金行政の中で、なかなか『鈍感力』に徹しきれない精神的環境に置かれている。それでも、個々の教員にはまだ学問の自由があり、発言の自由があります。私たちが萎縮したらおしまいだと思っています」

(文責・江川紹子)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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