ルメールとイクイノックスを見た少年が、ジョッキーベイビーズに出場するまで
天皇賞を見て騎手を目指す
丁度1年前の今頃、小学生だった少年は空手に打ち込んでいた。
「でも、その頃から心は『騎手になる』と決めていました」
そう語るのは少年の父の八嶋雄太。騎手を目指し競馬学校に入学したが、途中で辞めてオーストラリアへ飛んだ。かの地で調教ライダーを務めた後、帰国。いくつかの育成牧場を経て、2014年、北海道に自らが経営するヤシレーシングランチを開場した。
そんな八嶋が冒頭で語ったのは子息である八嶋志有歩(しゅうほ)君について。ギャロップを意味する襲歩から名付けられた彼は、10年11月生まれで3人きょうだいの長男。馬が身近にいる環境で育ったが、小学生時代は空手に興じた。
「イクイノックスがパンサラッサを差し切った秋の天皇賞(22年)を見て、衝撃を受け、自分も騎手になりたいと考えるようになったみたいです」
空手を中途半端にやめてほしくなかったため、年度末となる23年3月まではやらせた後、同年4月、中学生になったのと同時に、乗馬を始めさせた。
「まずは『いつかジョッキーベイビーズに出られれば良いね』という感じで話していたのですが、出場資格が中学1年までしかない事を6月になってから知りました」
北海道予選は7月30日。そこからスパルタの特訓が始まった。
急ピッチで予選に出場
「ヤシレーシングランチは加藤ステーブルの中に厩舎があるので、同ステーブルの加藤天明さん(株式会社ケイズ代表取締役)を始め、スタッフの阿蘇颯音さん、白石工さんらに馬術指導をしてもらいました」
そんな協力のお陰もあって急ピッチで上達。しかし、そこでもう1つ、問題が起きた。
「予選のポニーは自馬を連れて行かなければいけませんでしたが、自分は持っていませんでした」
ただし、加藤ステーブル内には1頭のポニーがいた。いつも乗っていたのは女の子。彼女は現在、競馬学校生の五十嵐ひなさん。ポニーの所有者は彼女の父であり元道営の騎手、現在は調教師の五十嵐冬樹だった。
「五十嵐さんに貸していただけないかを伺うと、快諾してくださいました」
それどころか、予選当日には五十嵐が現役時代に使用していた馬具までも貸してくれた。
また、こんな事もあったと雄太が言う。
「レースでは勝負服を選べるので、私が地方競馬で使用しているモノを薦めました」
すると、志有歩君から思わぬ言葉が返って来た。
「『お世話になった加藤ステーブルさんのを着たい』と本人から申し出がありました。そこで加藤天明さんのお父様である信之さんの勝負服の使用許可をいただくと、快諾してもらえました」
こうして予選に出場した。
予選は1回戦で2着以内までに入れれば地区決勝戦に進める。そして、地区決勝戦は優勝者のみが、10月に東京競馬場で行われる本戦に出場出来る方式だった。1回戦は2位入線で通過。こうして迎えた決勝戦。今度は勝つ事が義務付けられたが、またも2位入線に終わった。
「本戦はいけないけど、怪我無く終われたし、素晴らしい経験が出来たので良かった」
そう思っていると、予期せぬ報せが届いた。
「1位入線の子がフライングとなり、繰り上がりの優勝になりました」
乗馬を始めて僅か3カ月程度。無欲の勝利で東京競馬場への切符を手に出来たのだ。
ジョッキーベイビーズ当日の出来事
10月8日の本戦までは2カ月と少し。ここからまた猛特訓が始まった。先出の加藤ステーブルのスタッフが、自分達の仕事があるにもかかわらず、毎晩、指導をしてくれた。土日や休日も関係なく、毎日、付き合ってくれた。こうして前日の10月7日に東京へ移動。騎乗馬は本人がクジを引き、2歳牡馬の「ゴールデンフジ」に決定。前日練習で初めてコンタクトを取った。その時の様子を、雄太が語る。
「普段はひょうひょうとしている性格だけど、この時は口を真一文字に閉じて、ご飯もノドを通らず、ガチガチに緊張していました」
翌8日、東京競馬の全12レース終了後に行われる本番直前を迎えても、そんな雰囲気は変わらず、心配した。しかし……。
「馬に跨った際、加藤天明さんから『馬を信じて乗りなさい』と言われた途端、自分1人じゃないと気付いたのか、目に見えて力が抜けたように感じました」
本馬場入場時は「いつもの志有歩らしい笑顔も見られた」(八嶋雄太)。その瞬間、思った。
「楽しんで、力を出せそうだ」
安堵した八嶋の目に、スタート地点まで駆けつけてくれた丸田恭介の姿が映った。
「私の妻の叔父が宗像義忠調教師という事もあり(同調教師の弟子の)丸田騎手にもよくしていただいていました。この日はレース後に残って、見守ってくれていました。ジョッキーベイビーズのスタート地点では子供達、皆に『大丈夫だよ、リラックスしていこう』と声をかけてくれていたそうで、志有歩も笑顔になっているのが分かりました」
更に、この日、関西で競馬を使っていて、東京には出走馬のいなかった宗像も、スタンドに駆けつけてくれていた。
「加藤天明さんや阿蘇先生も来てくださり、胸を熱くしていると、スタートを報せるGⅠファンファーレが鳴り、身震いしました」
後に志有歩君に話を聞くと、彼も同じように「ファンファーレで震えた」事が分かったそうだ。
悔しい結果に思った事
さて、レースは直線半ばで先頭に立とうかという場面があったが、そこでモノ見をしたのか急激に内へ切れ込み、両足の鐙が脱げるアクシデント。これにより他の参加者の子の進路を妨害してしまった。
「自分も追えなくて、3着に敗れてしまいました。勝負に意気込み過ぎて馬を御せなくなってしまった事を、レース後に涙を堪えて猛省していました」
その後、すぐ隣にC・ルメールが立って記念写真の撮影があった。この時の志有歩君の気持ちを、後に雄太が耳にしている。
「イクイノックスの天皇賞を見て、騎手に憧れたので、感動すると共に『いつかまたこうやってルメールさんと肩を並べられる日が来るようにこれからもっと頑張ろう』と決心したようです」
順調に行けば来年には競馬学校を受験する。今回は3着に敗れたが、何年か後に、再び東京競馬場に戻った彼が、イクイノックスとルメールのように、先頭でゴールラインを駆け抜ける勇姿が見られる事を期待しよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)