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生死をかけたアクシデントから生還した調教師の、厩舎と愛妻との絆のストーリー

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
和田雄二調教師とウインレイアー

調教師を目指し英国へ

 「7月12日です」
 自分の誕生日を尋ねられた男は、そう答えた。しかし、それは彼の誕生日ではなかった。
 「意識が戻るまで2〜3日、それから言葉を発せられるまで更に2〜3日かかりました」
 昨年4月。早朝の美浦トレーニングセンターで、1人の男が倒れた状態で、発見された。
 和田雄二。1969年8月生まれだから当時53歳。調教師だった。

和田雄二調教師
和田雄二調教師

 鹿児島県で生まれ、騎手に憧れた。元3冠騎手で、元調教師の吉永正人(故人)を頼り騎手試験を受けたが、体が小さ過ぎたり、視力が悪過ぎたりで3度連続不合格。目標を調教師に変更した。
 88年、日本大学農獣医学部に入学。卒業後は北海道へ飛び、ファンタストクラブで馬乗りの基礎を教わった。
 「必死に教わった後、クライブ・ブリテン調教師(引退)を紹介していただけたので、イギリスのニューマーケットにある彼の厩舎で働きました。それが24歳くらいの時でした」
 厩舎の2階に住み込み、休みも返上して馬と暮らした。そんなある日、驚かされる事があった。
 「暴れた馬がいたのですが、スタッフも調教師も全く叱りつけないので、それで良いのか尋ねると『何があっても牝馬に怒りつけてはいけない』と言われました」
 半信半疑だったが、そんな教育をされているユーザーフレンドリー(93年サンクルー大賞典等GⅠ5勝)が大レースを勝ちまくるのを目の当たりにすると、腑に落ちた。
 「生活に馬が溶け込んでいる環境で、その接し方は勉強になる事ばかりでした」

クライブ・ブリテン調教師(2010年英国にて撮影)
クライブ・ブリテン調教師(2010年英国にて撮影)

 約9カ月滞在した中での、ある日の事だった。現地で通っていた語学学校で1人の日本人女性と知り合った。育子さんという名の彼女とその後、交際に発展。帰国後、籍を入れた。
 「結婚式の会場まで予約していたのですが、直前に彼女の父、私の母と相次いで他界したため、結局、式は挙げられませんでした」


苦しかった船出

 それでも伴侶を得た事でその後は公私ともに順風満帆な生活を過ごした。
 競馬学校に入学し、卒業後は厩務員から美浦トレセンでのキャリアを開始した。
 「吉永先生の下、持ち乗り調教助手を経て、調教助手になりました。吉永先生は懐が深くて、調教師を目指す私に大事な仕事のほとんどを任せてくださいました」
 吉永の他界後は武市康男厩舎経由で中野栄治厩舎へ移籍。その間、調教師試験を受け続けた。
 「何回受けても一次すら受からず、妻に泣きついた事もありました。でも13回目で初めて一次を突破すると、次の年の2013年、14回目の受験で二次にも受かる事が出来ました」
 正直手応えがなかっただけに合格の報を知った時には嬉しさが倍増したという。しかし、その直後、試練が待っていた。通常は約1年の技術調教師という期間を経て開業するが、当時は廃業する厩舎も多く、和田は合格発表後すぐに開業となった。
 「いきなり16馬房を与えられたのですが、馬を集める時間がなく、馬房が埋まらないままのスタートになりました」
 2年目には早くも20馬房になった。馬がいなくても馬房数に応じた従業員は雇わなければいけない。「開業後しばらくはかなり苦しい状況だった」と和田が言うのも頷ける。
 そんな時、助けてくれたのが「常に支えてくれた妻でした」と言い、更に続けた。
 「それと馬にも助けられました。開業2、3年目には2歳の早い時期からしっかり結果を出してくれる馬達が現れたんです」

左が和田雄
左が和田雄

 18年には「体質が弱く、慢性的に歩様が悪かったが、素質的にはかなりのモノ」(和田)と感じさせる牝馬と出会った。ブリテンの教えを守り、決して叱りつけない教育をしていると、クイーングラスと名付けられたこの馬はデビュー戦となった3歳未勝利戦で既走馬相手に快勝。秋には紫苑S(GⅢ)に出走する等、6戦2勝、2着3回という成績を残した。彼女は体質が弱く、この成績でターフを去ったが、4年後の22年、その子供が入厩した。
 「母似のスピードのある子でした」
 同年11月にはデイリー杯2歳S(GⅡ)を優勝。和田に初めてとなる重賞制覇を運んでくれたオールパルフェだった。

和田雄に重賞初制覇を記録させてくれたオールパルフェ
和田雄に重賞初制覇を記録させてくれたオールパルフェ


調教中に倒れる

 開業10年目でついに栄冠を掴んでから、僅か5カ月後の23年4月22日の事だった。朝の調教に騎乗した和田が、倒れた状態で見つかった。
 「意識が飛んでおり、全く記憶にありません。気付いたらベッドの上で、歩くのはおろか動く事すら出来ず、赤ちゃんみたいな状態でした」
 調教中に脳梗塞になり、落馬していた。
 「コレステロール値が少し高いと言われていたくらいだったので、自分でも驚きました」
 同じように驚いたのが育子夫人だった。和田が言う。
 「たまたま2人の息子が帰郷していたタイミングだったので、彼等に助けられたみたいだけど、妻はかなり動揺していたそうです」
 そこで意識が戻るのにどのくらい要したかを伺うと、冒頭で記した答えが返ってきた。
 「意識が戻るまで2〜3日、それから言葉を発せられるまで更に2〜3日かかりました。落ちた日の記憶が抜けているし、喋れないので、もどかしい毎日でした」
 ところが、この返答を聞いていた育子さんがかぶりを振って言った。
 「呼びかけに答えなかったのは最初の3〜4時間程度でした。翌日には言葉も話せて普通病棟へ移されました。ただ、本人の中ではそれくらい長く感じたという事なのだと思います」
 当初は寝たきりでオムツを穿かされていた。病状は少しずつ良化。約5週間後の5月28日には転院。そこからはリハビリに1カ月をかけ、事故から約2カ月後、やっと厩舎に戻る事が出来た。
 「入院中、徐々にしっかりしていくに従って、自分の身体よりも厩舎が気になっていきました」
 そんな危機を乗り切れたのは「スタッフのお陰」だという。
 「開業以来、定年以外で辞めたスタッフがいないのが、うちの厩舎の特徴でした。つまり、団結力があるし、自らの判断で動けるベテランが多い。彼等に助けられました」
 復帰後、長い間、勝てなかったが、12月にはウインレイアーが先頭でゴールインした。
 「苦しかったけど、開業当初を思えば馬がいるだけでも幸せだし、ちゃんとやっていればいつか勝てるとは考えていました」

和田雄とウインレイアー
和田雄とウインレイアー

妻との絆

 ここで、改めて今回の件で勉強になった事、気付かされた事があるかを尋ねると、大きく首肯した後、口を開いた。
 「何でも率先してやる性格だったのですが、今回、自分でやりたくても人にお願いしなくてはいけないという状況に身を置き、任せる事の大切さに気付きました」
 自分に何でも任せてくれた吉永ら師匠の振る舞いの偉大さを改めて感じると共に、自分もそうしなければ、と痛感した。
 そして、それは厩舎スタッフに対してだけ、ではなかった。
 「妻には妻の時間を自由に過ごしてほしいと考えていたので、厩舎の経理とか面倒な作業は一切やらせていませんでした。でも、今回の件を機に、現在は妻自ら助けてくれるようになりました」
 妻・育子さんとの絆は、改めて強くなった。それを象徴した出来事が、冒頭で記したモノだった。8月14日が誕生日の和田が、無意識のうちに誤って応えていた「7月12日」。それは、育子さんの誕生日だったのだ。
 「僕等は結婚式を挙げられませんでした。でも、そのうちハワイへでも行って挙式しようかな、と考えています」
 厩舎の事はある程度スタッフに任せても大丈夫という確信を持てた和田は本気でそう思っているのだが、これを横で聞いていた育子さんが微笑みながら言った。
 「健康でいてくれれば、それだけで良いです」
 突然の雷雨は決して歓迎したモノではなかったが、結果的に地は固まった。厩舎と、愛妻との結束も強くなった和田雄二の、今後の活躍に期待したい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)






ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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