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悲願達成に涙した理由と、すぐに連絡した相手。そして、その時の相手の態度とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
佐藤悠太調教師(右)と鞍上は今村聖奈騎手

廃止された生まれ故郷

 祖父は山形県上山市にあった上山競馬場で騎手兼調教師をやっていた。父はその厩舎で働く調教助手だった。佐藤悠太は、そんな家系の下、1988年5月3日に生まれ、妹と共に育てられた。

佐藤悠太調教師
佐藤悠太調教師

 「自分が小学1年の時に父が調教師試験に合格しました。10馬房でスタッフ2人を雇い、開業しました」

 父の厩舎に出入りする様々な人を見ているうち、佐藤少年は次のように感じた。

 「調教師は遣り甲斐のある仕事」

 小学5年の時には「調教師になる!!」と決断。中学では競馬場内にある乗馬クラブで馬乗りを教わった。

 中学3年生の時、忘れられない出来事があった。

 「上山競馬場が閉場となりました。最終日に見に行ったところ、レースが終わった後、大人達がボロボロ大泣きしていました」

 ショックを受けた佐藤の目標はこれを境に更に一歩前進した。

 「ただ調教師を目指すのではなく、日本の競馬文化を残せるような調教師になりたいと考えるようになりました」

 金沢への移籍が決まった父からはJRAを薦められた。

 「当時の地方競馬はどこも苦しい状況でした。実際に上山も無くなってしまった事で、父は同じ目に遭わせたくないと考えたのだと思います」

 佐藤自身、JRAへの憧れがあった。

 「さくらんぼ記念に騎乗するため武豊さんが来場された際、上山が大賑わいになりました。華のある武さんの姿を見て、自分もJRAへ入りたいと考えるようになりました」

華のある武豊騎手
華のある武豊騎手

縁ある牝馬からもらった財産

 逆算し、道を選んだ。乗馬クラブで乗り続けた高校時代を経て、日本獣医生命科学大学に入学。動物栄養学を専攻し、飼料の勉強をしながらここでも毎日、馬に乗った。

 「馬術の知識や技術を習得したくて、そのためには大会で少しでも好成績を残そうと頑張りました」

 全日本学生で入賞すると、2011年にはノーザンファームしがらきへの就職を決め、大学の卒業式に臨んだ。その時だった。

 「卒業証書をもらって、昼飯をとろうとしていると、いきなり揺れました」

 東日本大震災だった。

 この影響で配属先がしがらきではなく、空港牧場に変更された。すると、割り当てられた厩舎に1頭の鹿毛の牝馬がいた。

 「丁度、馴致が終わった時期でした。この後、この牝馬はしがらきへ移動したのですが、自分も追いかけるようなタイミングでしがらきに転勤になりました」

 そこで任命された厩舎に、またしてもその鹿毛の牝馬がいた。運命を感じ、注目していると、ジェンティルドンナと名付けられ、牝馬3冠を制したばかりか、ジャパンC(GⅠ)も優勝した。

 「秋華賞とジャパンCの頃、自分は競馬学校の生徒だったので、テレビ観戦をしました。凄いなぁ、と思うと同時に、こういう馬に携われたのは大きな財産だと感じました」

2012年の牝馬3冠馬ジェンティルドンナ
2012年の牝馬3冠馬ジェンティルドンナ

海外の伯楽の重い言葉

 競馬学校卒業後は、トレセン入りするまでの間を利用してアイルランドへ飛んだ。

 「カラのトレーシー・コリンズ厩舎に住み込ませてもらい、3カ月過ごしました。ラチもなく、羊だらけの馬場で馬に乗り、自分自身が試されている感じがありました」

ラチなどなく、羊はゴロゴロしているアイルランドの調教場
ラチなどなく、羊はゴロゴロしているアイルランドの調教場

 かの地では競馬場にも行った。そんなある日の事だった。馬場入りした馬に熱い視線を注ぐ2人の男がいた。現地の伯楽、ジム・ボルジャーとエイダン・オブライエンだった。ゲートへ行くまで見つめている姿に興味を持った佐藤は、オブライエンに直接、聞いた。

 「何を見ているかを聞くと『馬から発するメッセージを感じようとしている』と答えられました」

 更に続く言葉に、驚かされた。

 「続けて『見ても分からないけどね』と言われました。エイダンほどの人でも分からないから感じようとしているというのを知り、自分なんてもっともっと頑張らないといけないと痛感しました」

 この件以来、乗っていても、触っていても、何かを感じようとアンテナを張り巡らすようになった。

 ちなみに帰り際に、オブライエンに「日本へ帰って、いずれあなた方に挑戦出来るような調教師になりたい」と伝えた。すると……。

 「『待っています』と、親切に答えてくれました」

左から2人目がA・オブライエン調教師で右から2人目がJ・ボルジャー調教師(18年7月撮影)
左から2人目がA・オブライエン調教師で右から2人目がJ・ボルジャー調教師(18年7月撮影)

トレセンでの2人の師匠

 帰国後、トレセン入りすると、最初は田中章博厩舎に入った。

 「田中先生は病気がちだったけど『調教師を目指すなら』と、一緒にセリや牧場を回ってくださったり、競馬場へも連れて行ってくださったりして、馬主さんも大勢紹介していただけました」

 そんな田中がある日、言った。

 「迷惑かけたね。もう少しサポートしてあげたかったけど、ごめんね」

 翌朝、他界した。

 「田中先生の携帯から、オーナーや牧場に連絡をすると、皆、口を揃えて『良い人を亡くしましたね』と言われました。実際、自分が調教師を目指していると言ったら、何もかも任せてくれたわけですけど、普通、トレセンに入ったばかりの若造にそんな事、出来ませんよね。田中先生のためにも1日も早く調教師にならないと、と誓いました」

 2016年9月からは田中厩舎を引き継いだ寺島良厩舎へと転厩した。

寺島良調教師(左)と佐藤悠太
寺島良調教師(左)と佐藤悠太

 「寺島先生とは全く面識なく、ほぼ『初めまして』の関係でした。それにもかかわらず、僕が調教師を目指しているのを知ると、重要な仕事も任せてくださいました」

 トップが変わった事で、やり方もガラリと変わったが「揉めた事はない」と言い、その理由を次のように語った。

 「寺島先生は年齢も近く、お兄さんみたいな存在で、何でも相談出来ました。そうやって話していくうちに、先生の信念が全くブレない姿勢をみて、尊敬出来ました」

 そんな寺島の下に、田中厩舎から転厩した馬の1頭に日進牧場のキングズガードがいた。

 「田中厩舎時代の担当者が寺島厩舎へ行く事になった事をオーナーに伝えると『せっかくなら担当者と一緒に連れて行ってください』と快諾していただけました」

 その流れで、全弟のキングズソードも寺島厩舎に入った。すると、23年11月にはJBCクラシック(JpnⅠ)を見事に優勝した。

 「勝った後、すぐに田中先生の奥様からお祝いの連絡が入りました。オーナーに『他の厩舎で』と言われていたら、この感動に立ち会える事もなかったわけですからね。日進牧場さんに感謝すると共に、思い入れの深い馬になりました」

キングズソード。お尻の向こうに写っているのが佐藤(23年東京大賞典出走時)
キングズソード。お尻の向こうに写っているのが佐藤(23年東京大賞典出走時)

難関を突破し、最初に連絡した人との逸話

 ところで、肝心の本人の調教師試験は、というと、23年、7度目の受験でついに難関を突破。アクシデントがない限り25年での開業が決まった。競馬が行われているのが当たり前の事ではないと、身をもって知っている新調教師は今後について、次のように語る。

 「上山の魂を引き継いで、競馬を更に発展出来るよう、注目される馬や人を育てられる調教師になりたいです」

 ちなみに合格の報は携帯を使い、自らネットで調べて知った。

 「厩舎で調べたので、寺島先生やスタッフの皆さんに祝福してもらい、自然と涙が溢れました」

 そして、真っ先に1人の女性に連絡を入れた。

 話は学生時代まで遡る。二十歳だった頃、隣の学部の女性と恋に落ち、交際を開始した。その後、北海道や滋賀、果てはアイルランドと渡り歩いたが、どれだけ距離が離れても心は放れなかった。

 「苦しい時もいつも陰でサポートしてくれた」彼女と、籍を入れたのは14年10月。その後は、調教師試験へ向けて頑張る姿勢を後押ししてくれた。

 「4回連続で一次すら受からず『自分にはセンスがないのか?』と思ったけど、そんな時もずっと『大丈夫だから』と自信を失わないような言葉をかけてくれました」

 16年には女の子が生まれ「この子が小学校に上がるまでには合格したい」と思ったが、23年の春、子供の入学の方が早く訪れた。

 「子供が遊びたがると、妻は『外で勉強してきて良いよ』と送り出してくれました」

 合格の報を見た際、自然と溢れた涙は「15年間、支えてくれた妻にやっと孝行が出来る」という感情から突き上げられたそれだった。佐藤は言う。

 「常々『あなたが夢をかなえる事が私の夢でもある』と言ってくれた妻に、真っ先に電話で報告し、感謝の言葉を伝えました」

 すると、奥様からは次のような言葉が返ってきたそうだ。

 「これがゴールではないからね」

 すでに結果を知っていたという奥様のその言葉は、涙声で震えていたそうだ。

 大きなターニングポイントを通過した佐藤は、やっと次のステップへのスタート地点に立った。これからの調教師人生に期待したい。

佐藤悠太
佐藤悠太

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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