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競馬場閉鎖で、自分の赤ちゃんら家族と引き裂かれそうな女性ホースマンの物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
競馬場閉鎖の報を受け「家族と離れ離れになるかも……」と危惧する飯塚千裕氏。

騎手に憧れ日本を飛び出す

 6月5日、衝撃のニュースが飛び込んで来た。

 『シンガポール競馬、来年の10月をもって閉鎖』

 シンガポールターフクラブが下したこの決断により、途方に暮れる日本人女性が、いた。

 「月曜日、ターフクラブからのメールで調教師が急に集められました。その際『全体で三つだけ問い合わせに応えるけど、それ以上は応じません』と一方的に言われた後、たった15分のミーティングで閉鎖を告げられました」

 そう語るのは飯塚千裕。現地の厩舎でライダーとして働いている。

右が飯塚千裕氏(13年撮影)
右が飯塚千裕氏(13年撮影)

 1978年9月2日、静岡市の出身。父・義雄、母・陽子の下、3人きょうだいの長女として、弟と妹と一緒に育てられた。

 「父の影響で動物好きだったため、馬と仕事の出来る騎手に憧れました」

 そこで高校卒業後、オーストラリアの競馬学校に入学。長身のため騎手になるのは断念したが、他にも馬に携わる仕事があると気付き、競馬学校卒業後も現地に残った。

 「騎手課程を卒業後、トラックライダーとして厩舎で働きながら大学でブレーカー(馴致係)の資格も取得しました」

 その後、ビザの都合で帰国すると、北海道や滋賀の育成牧場で働いた。

 「落馬で肋骨が折れて肺に刺さったり、後ろ蹴りをされて顎を骨折したり、命にかかわるような大きな怪我を3回もしました。意識が戻ると、横で母が見守ってくれていた時は、心配をかけて申し訳ないと思ったけど、馬が好きだったので辞めようとは一度も思いませんでした」

 2003年に、シンガポールの厩舎でライダーを探していると聞くと、すぐに飛んだ。その後も一度、ビザの関係で帰国を余儀なくされたが、07年に再びシンガポールへ行くと、以来、かの地で、馬の上での生活を続けている。

 「最初の頃は厩舎の馬房と並んだ物置のような部屋に住んでいました。ゴキブリやネズミと共に生活している感じでしたけど、家賃もかからないので住めば都というつもりで暮らしていました」

 そんな生活でも、大好きな馬には真摯に向き合っていると、見ている人は見てくれていた。やがて、大手の厩舎から声がかかり、ライダーだけでなく、調教師の右腕として、経理等も任される身になった。結果、現在では厩舎になくてはならない存在となったのだ。

奇跡的に授かった命

 そんな飯塚だが、必ずしも何もかもが順風満帆だったわけではなかった。ある年の定期健診で、生死にかかわる病気の予備軍と診断されたのだ。

 相当なショックかと思いきや、死を覚悟するような落馬を何度もしていた彼女は、その度、もらった命だと考えていたせいか、意外にもサバサバと現実を受け入れられたと言う。

 「結婚や妊娠は諦めました。でも、その分、馬を子供のように愛する気持ちがより強くなりました」

 そんな馬に対する態度が、一人の男の目に留まるのだから、正に“禍福は糾える縄の如し”だ。

 「調教助手の男性から『全てを受け入れるから』と、結婚を申し込まれました」

 19年12月、飯塚は籍を入れた。

 結婚した後も馬に乗り続けていた彼女に、奇跡が起きたのは22年になってからだった。いつものように定期健診に行くと、医師から告げられたひと言に、言葉を失った。

 「『赤ちゃんが出来ている』と言われました。それも既に5ケ月と言われたのですが、悪阻もなかったし、普通に馬にも乗っていたので『え?!』という感じでした」

 冷静になると、現状を考えた。

 「ミラクルで出来た赤ちゃんだけど、自分の年齢や仕事を考えると、正直、産むのは厳しいかと考えていました」

 厩舎でそんな話をすると、皆から猛烈に反対をされた。

 「自分のボスである女性調教師や、高齢の男性スタッフらが口を揃え『せっかく授かった子供なのだから、皆で手伝うので産みなさい』と、言ってくれました」

厩舎の皆と。左端が飯塚氏
厩舎の皆と。左端が飯塚氏

 他にも新しい命を授かった事を喜んでくれる人がいた。

 「父は病気で倒れ、意思疎通が難しくなっていたのですが、母と祖母は凄く喜んでくれました」

 これらに背中を押され、出産を決意。ただし、これがまた一筋縄ではいかなかった。

 「高齢出産なので、これ以上お腹に赤ちゃんを入れておいたら自分の体が危ないというギリギリまで待った後、帝王切開での出産になりました」

 22年7月、こうして産まれた男の子は、未熟児で、自発呼吸が出来ず、しばらくの間、保育器の中で育てられた。

 「これも高齢がネックになり保険がきかず、入院費は500万円を超えました」

 だから出産を終えると、すぐにまた馬に乗り、働いた。

 そんな彼女を助けてくれる人達がいた。

 「毎日、赤ちゃんを連れて厩舎へ行くのですが、調教師や厩舎スタッフが皆、代わる代わるあやしてくれる等、すごく可愛がってくれます。日本ではまず考えられない事で、シンガポールで良かったと感じました」

 厩舎の皆が、産む前の約束を守ってくれたのだ。

飯塚の赤ちゃんをあやす調教師(左)と厩舎スタッフ(本人提供写真)
飯塚の赤ちゃんをあやす調教師(左)と厩舎スタッフ(本人提供写真)

飛び込んで来た最悪の報せ

 そんなシンガポールに、一時的に母を呼び寄せた。父が施設に入り、実家を売却したため、だ。

 「私が17歳で家を出てから一度も一緒に住んでいなかったので、喜んでくれました。8月には70歳の誕生日を迎えるので、奮発してマリーナベイサンズのレストランでのお祝いを計画しました」

 そんな矢先、飛び込んだのが競馬場を閉鎖するというニュースだった。

 「ターフクラブは350人の再雇用を手伝うと言っているのですが、実際に働いている人は1000人に上ります。つまりほとんどの人が路頭に迷う事になるんです。自分の場合、仕事がなくなれば子供の養育費が払えなくなるのは当然ですが、永住権を取得出来ていないので、国内に留まる事も出来なくなります。そうなると、主人や子供とも離れ離れに暮らさなければいけません」

 飯塚は自分がそんな状況であるにもかかわらず、人の事にも想いを寄せて、言う。

 「赤ちゃんの世話を手伝ってくれている厩舎スタッフは、おじいちゃんと言って良い年代の方も多く、彼等も再就職は難しいでしょう。あんなに優しい人達が、何故こんな仕打ちを受けないといけないのでしょうか……」

 07年にシンガポールへ渡ってから17年間。かの地の競馬に全てを捧げて来た彼女が、裏切られるような事にはなってほしくない。お母様の誕生祝いをスッキリとした気持ちで迎えられる様、事態が好転する事を祈るばかりである。

※なお、シンガポール競馬存続のオンライン署名を下記から行えます。

シンガポール競馬存続オンライン署名

18年撮影
18年撮影

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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