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オルフェーヴルの子供がつないだ3人の男達の縁

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
”エクリ”を囲んで左から田中博康調教師、戸崎圭太騎手と鈴木剛史オーナー

オルフェーヴルの仔で凱旋門賞に挑みたい

 ある晴れた4月某日。埼玉のとある乗馬クラブで“大人の遠足”が行われた。

 呼びかけたのはJRAの馬主でもある鈴木剛史氏。参加したのは彼の仲間と調教師の田中博康、そして、騎手の戸崎圭太だった。彼等はある1頭の馬が結ぶ縁でつながっていた。

乗馬クラブに集まった左から田中博康調教師、鈴木剛史オーナー、戸崎圭太騎手
乗馬クラブに集まった左から田中博康調教師、鈴木剛史オーナー、戸崎圭太騎手

 鈴木氏は1979年5月生まれで44歳のほんの少し手前。競馬は中学生くらいから見始めた。横浜で歯科病院を開業した少し後の2012年の事だった。仕事を終え、立ち寄ったラーメン屋で、人生を変える出来事に遭遇した。

 「テレビで凱旋門賞の中継をやっていたので、見ました」

 直線、日本から挑戦していた栗毛馬が抜け出した。

 「『勝てる!!』と思って、立ち上がりました」

 しかし、ゴール寸前、差されて2着。

 オルフェーヴルだった。

 「三冠馬になった時から魅了されたけど、この凱旋門賞を見た時に『将来、馬主になってオルフェーヴルの子供で凱旋門賞を目指したい!!』と心に誓いました」

12年の凱旋門賞で、直線一度は完全に抜け出したオルフェーヴル(左)と、最後の最後で差し切ったソレミア
12年の凱旋門賞で、直線一度は完全に抜け出したオルフェーヴル(左)と、最後の最後で差し切ったソレミア

3人の出会い

 それからしばらく後の事だった。歯科医師仲間から1人の騎手を紹介してもらった。

 それが戸崎圭太との出会いだった。

 15年から馬を持つようになると、17年のセレクトセールの前に戸崎が調教師を紹介してくれた。

 「オルフェーヴルの仔を買おうと考えていたら、預かってくれる調教師として、何人か名前を挙げていただきました」

 各調教師のプロフィールを見ると、ある言葉に目が留まった。

 「『凱旋門賞を勝つ!!』と宣言している調教師がいました。個人的に志の高い人が好きなので、彼を紹介してもらいました」

 それが田中博康だった。

 騎手時代、フランスで修行した事もある田中は言う。

 「大仲(厩舎の休憩所)に『凱旋門賞制覇』と掲げるくらい、凱旋門賞は厩舎の目標です。志が同じ鈴木オーナーとはすぐに意気投合しました」

田中博康厩舎の大仲(休憩所)には「凱旋門賞制覇」の文字が掲げられている
田中博康厩舎の大仲(休憩所)には「凱旋門賞制覇」の文字が掲げられている

オルフェーヴル産駒でダブルメモリアル勝利

 こうして鈴木氏と田中は相談し、オルフェーヴルの牡馬を1頭、購入した。再び田中の弁。

 「騎手時代に知り合ったフランスの知人に『現地でも通用する名前を……』と相談して、“新しい歴史を記す”という意味の“エクリリストワール”をオーナーに推奨しました」

 この名前を気に入った鈴木氏がJRAに申請。無事、認可されると18年の夏にデビュー。鞍上は勿論、戸崎。エクリリストワールの第一印象を次のように語った。

 「この血統なので少し難しい面があるけど、背中が良くて、走る馬だと感じました」

現役競走馬時代のエクリリストワール
現役競走馬時代のエクリリストワール

 結果は2着。その後も2着3着を繰り返し、すぐに勝てるかと思えたが、4戦走ったところでハ行し、休養。これが思わぬ偶然につながった。

 約3ケ月の休養明けで迎えた5戦目は19年6月29日の福島競馬の第7レースとなった。

 「その日のそれまでのレースに何頭も人気馬に乗せていただいていたのですが、勝てないまま第7レースを迎えました」

 戸崎はそう述懐する。

 しかし、エクリリストワールはその悪い流れを断ち切った。1番人気に応え、見事に先頭でゴール。これが、鈴木オーナーにとっての初勝利。そして、同時に戸崎にとってはJRA通算1000勝目となる勝利。ダブルメモリアルの優勝劇となったのだ。

 その後のエクリリストワールは連勝で500万条件を勝利すると、1000万条件も2戦で通過。当初描いていたのとは違うダートでの活躍ではあったが、アッという間に準オープンまで出世した。

20年1月には初霞賞を勝利してアッという間に準オープンまで出世したエクリリストワール
20年1月には初霞賞を勝利してアッという間に準オープンまで出世したエクリリストワール

 しかし、20年の安達太良S(準オープン)では1番人気で3着と好走したものの、これを最後に、掲示板に乗る事が出来なくなった。6戦連続で掲示板を外すと、21年11月21日には距離を短縮して阪神競馬場の姫路Sに出走。「これでダメなら大きな怪我をする前に引退させてあげましょう」(鈴木氏)という覚悟を持ってレースに臨んだ。

 結果は16頭立てのシンガリ16着。田中は言う。

 「残念ながら気持ちが切れちゃったのか、力を出せないようになってしまいました」

21年11月、阪神でのラストランに臨んだ際のエクリリストワール
21年11月、阪神でのラストランに臨んだ際のエクリリストワール

引退後も目の届くところに……

 こうして引退の決まったエクリリストワールだが、鈴木氏は「思い入れのある馬なので目の届くところに置いておきたい」と、田中に相談。相談を受けた田中は、自分が騎手になる前に通っていた乗馬クラブに話を持ち掛けると、同クラブで面倒を見てくれる事が決まった。

 それから1年以上が過ぎ、乗馬クラブから鈴木氏に連絡が入った。

 「乗馬用の馴致が進み、やっと人を乗せられるようになったという連絡でした。乗馬にすると決まった時から、いずれ皆で会いに行きたいと考えていました。だから早速、声をかけると、戸崎騎手も『行きたい』と言っていただけたので、皆で行く事にしました」

乗馬クラブでのエクリリストワール
乗馬クラブでのエクリリストワール

 こうして集まったのが、冒頭に記した“大人の遠足”だ。

 田中は言う。

 「引退した後もこうして会いに来る事が出来るのは嬉しいです」

 終始、笑みを見せていた戸崎も言う。

 「久しぶりに合ったけど、とにかく元気そうで何よりです」

 そして、鈴木氏。ヘルメットは被らなくても大丈夫な程度の、曳き馬で歩かせるだけだったが、それでも満面の笑みで言った。

 「夢を見させてもらった馬にこうしてまた合えただけでなく、乗せてもらう事まで出来ました。背中の良さは分からなかったけど、時間を作ってまた来たいです」

エクリリストワールに跨る鈴木氏
エクリリストワールに跨る鈴木氏

 この乗馬クラブでのセカンドキャリアが決まった際、鈴木氏が唯一、お願いした事があった。競走馬が乗馬用に替わる際、預かる先で新たな名前が付けられるケースが多いが 大幅な名前の変更だけはしないでほしいとお願いしたのだ。三人の男達に見守られ、第二の馬生を始めたエクリリストワールは、現在“エクリ”という名前で、皆に親しまれている。

(文中一部敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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