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エリザベス女王杯で波乱の立役者となった馬の担当者が語る、思いもよらぬレース回顧

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
13日に行われたエリザベス女王杯のゴール前

思い切った行動で馬の世界へ

 13日に行われたエリザベス女王杯(GⅠ)で波乱の立役者となったライラック。12番人気ながら2着同着と健闘したこの3歳馬を担当する男が今回の主役だ。

 美浦・相沢郁厩舎で持ち乗り調教助手を務めるのが三尾一之。1976年6月生まれの46歳。出身地は函館。父に連れられて函館競馬場へ通ううち騎手に憧れ、目指すようになった。

 「ただ、体が大きくなりそうだったので諦めました」

 そこで高校へ通い、卒業後は就職をした。

 そんなある日の事だった。

 「たまたま街で会った人が競馬場の通行証を持っていたので、声をかけると、元騎手の蛯名久調教助手(引退)でした」

 競馬場で働きたい旨を伝えると、牧場を紹介してもらえた。

 そうして牧場で2年半ほど働いた後、競馬学校に入学。99年から相沢厩舎で働くようになった。

エリザベス女王杯のパドックでのライラックと担当の三尾調教助手
エリザベス女王杯のパドックでのライラックと担当の三尾調教助手

ダービーに3度、出走

 相沢の下で汗を流して3年目の2001年には担当するマイネルライツが日本ダービー(GⅠ)に出走した。

 「当初は除外対象でしたが、3日前に1頭辞めて出られるようになりました。その途端、緊張してお腹が痛くなりました」

 ダービー当日までお腹はキリキリしっぱなし。マイネルライツは13着に敗れた。

 「反省しました。その4年後にはダンスインザモアで再びダービーの舞台に立てましたけど、この時は規格外のディープインパクトが相手にいたので、勝ち負けは厳しかった(14着)です」

ダンスインザモアも三尾の担当だった(写真は10年、富士S出走時)
ダンスインザモアも三尾の担当だった(写真は10年、富士S出走時)

 「またダービーに挑戦したい」と強く願ったが、実際にその機会を得るまでには15年の歳月を要した。20年の3歳最高峰決定戦に、担当するブラックホールを送り込む事が出来た。

 「よく頑張ってくれ、7着になりました。ポテンシャルの高い馬だけど、体が小さくて、気性的に難しいゴールドシップの仔という事もあり、大きなところを勝たせてあげられませんでした」

右の黄帽がブラックホール(弥生賞出走時)
右の黄帽がブラックホール(弥生賞出走時)

小さな牝馬でクラシックに挑むも……

 そんなブラックホールの妹も、三尾が担当した。

 「性別も違うし、それほど似ていない」という印象を受けたその妹が、ライラックだった。

 父はオルフェーヴルに替わっていたが、体が小さいのは兄同様。21年の秋に新馬勝ちすると、3戦目となった今春のフェアリーS(GⅢ)で重賞制覇。しかし、デビュー戦で434キロだった体は420キロまで減っていた。

 「同じように体の小さな兄も経験させてもらっていたので、飼い葉を4回に分けて与えたり、飼料を変えたりと、少しでも食べるように工夫しました」

フェアリーSを勝利した際のライラック
フェアリーSを勝利した際のライラック

 こうして桜花賞(GⅠ)では少し戻して426キロになった。しかし……。

 「当時は枠内での駐立に課題があり、スタートも出なかったので、ゲート練習ばかりしていました。今、思うとそれでストレスをかけてしまったかもしれません」

 結果、桜花賞で16着に敗れると、続くオークス(GⅠ)も11着に大敗した。

 「こんなものではないという気持ちはあったけど、結果を出せていなかったので、口に出してそうは言えませんでした」

夏を越して成長

 夏は北海道の吉澤ステーブルでの放牧を挟み、函館競馬場に入厩。三尾はそこで再会した。

 「成長して背丈が伸びていました」

 プラス8キロの434キロで紫苑S(GⅢ)に出走すると、3着に好走した。

 「あえてゲート練習はほとんどせずに、臨みました。ある意味、賭けだったけど、普通に出てくれたし、よく走ってくれました」

 当然、続く秋華賞(GⅠ)には色気を持って臨んだ。

 「輸送も問題なく、体重もそれほど減りませんでした(2キロ減のみの432キロ)。落ち着きもあり、期待しました」

 ところが、ゲート裏で鞍上から思わぬ言葉をかけられた。

 「騎乗したミルコ(デムーロ)が『気負い過ぎている』と言うんです。外見上、そうは思えなかったのですが、乗っているとそう感じるのかな?と思いました」

 スタートを見守ると、うまく出た。しかし、結局はいつも通り後ろからの競馬となり、10着に敗れた。

「色気を持って臨んだ」秋華賞だが、思わぬ大敗(10着)に終わった
「色気を持って臨んだ」秋華賞だが、思わぬ大敗(10着)に終わった

思いもよらぬレース回顧

 こうして迎えたエリザベス女王杯(GⅠ)。

 「中間、自分が腰を痛めて乗れなくなると、代わりに乗ってくれた石川裕紀人と横山琉人、それに調教助手が、折り合いに気をつけるなど、工夫をしてコンタクトを取ってくれました」

 すると、良い状態でレース当日を迎える事が出来た。

 「関西圏への輸送も4度目となり、慣れたせいか飼い葉も今までで1番、食べてくれました」

 すると、ゲート裏でデムーロに言われた。

 『前走と違って、今日は凄く良い』

 ゲート内でしばらく待たされた時は不安になったが、愛馬をみると、ジッとしていた。

 「全く心配ないくらい我慢してくれていたし、ゲートが開くと、他と一緒に出てくれたので、ホッとしました」

返し馬が終わった後「前走と違って凄く良い」と語ったミルコ・デムーロ騎手
返し馬が終わった後「前走と違って凄く良い」と語ったミルコ・デムーロ騎手

 スタートを見守った後は、いつも通り下馬所へ向かうバスに乗り込んだ。車内のテレビ画面が直線に入る馬群を映し出したところで、突然、画面がフリーズした。

 「地下道に入って電波が悪くなり、映像が止まってしまいました」

 地下道を出ると、ゴールまではもう50メートル。ジェラルディーナが抜け出しているのが見えた。

 「ただ、ライラックがどこにいるかは分かりませんでした。正直、2着争い出来るとは思えなかったので、自分の馬かどうか、半信半疑のままゴールを迎えました」

複勝圏内に入ったライラック(15番)だが、三尾には一瞬、それが分からなかった
複勝圏内に入ったライラック(15番)だが、三尾には一瞬、それが分からなかった

 ゴール後に流しているシーンを見て、自らの担当馬に気付いた。勝てなかったが、GⅠの大舞台で複勝圏内に食い込んだのは嬉しかった。しかし……。

 「“一瞬、夢を見た”とか、そういうのもないまま、2着争いをしてレースを終えていました」

 2着か、3着か。賞金を加算出来るか否かで、来年、出走可能なレースが大きく変わってくる。だから2着になってくれと願いながら、ターフビジョンでゴールの場面を確認した。

 「3着のように見えました。下馬所に行くと相沢先生も3着のところにいたので『やっぱり』と思うと同時に残念に感じました」

エリザベス女王杯直後のライラックとM・デムーロ
エリザベス女王杯直後のライラックとM・デムーロ

 2着同着である事を知ったのは、出張馬房に戻った後だった。

 「体は小さいけど、やはり素晴らしいエンジンを持った馬だ」

 そして、改めて思った。

 「まだ完成していない中でこれだけ走れたのは大きな収穫。この後もうまく成長させてあげられれば、更に上の着順も狙えると思います」

 三尾自身も3度のダービーに加えライラックと再三大レースに臨んだ事で、今ではすっかりお腹が痛くなるような事はなくなった。

 「良い意味で未勝利戦と同じ気持ちでGⅠに臨めるようになりました」

 三尾とライラックの、更なる活躍を期待しよう。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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